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教会からのお知らせ

年間第31主日の福音と勧めのことば

2022年10月30日 - サイト管理者

♰主の平和

いよいよ今年も残り2か月となりました。
教会の典礼暦は待降節から始まりますので、最後の月です。
11月は教会の伝統の中で「死者の月」と呼ばれていますので、帰天された方々をしのびつつ、過ごしたいと思います。

■今後のミサ予定 
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
ミサ参加後2日以内に感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守電にご連絡ください。
詳細は「ミサ実施要項」を必ずお読みください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

10月
30日㊐ BD地区 年間第31主日のミサ  10:30

11月
5日㊏ BD地区 年間第32主日のミサ  10:30
6日㊐ AC地区 年間第32主日のミサ  10:30
12日㊏ 第2週につき、ミサはありません
13日㊐ 第2週につき、ミサはありません
19日㊏ AC地区 王であるキリストのミサ 10:30
20日㊐ BD地区 王であるキリストのミサ 10:30
26日㊏ BD地区 待降節第1主日のミサ  10:30
27日㊐ AC地区 待降節第1主日のミサ  10:30

■京都教区時報11月号が発行されました。冊子は聖堂後ろに置いてあります。
https://kyoto.catholic.jp/jihou/540.pdf

■京都司教区いのち・平和・環境委員会主催 いのち・平和・環境の日の集いon ZOOM
「外国につながりのある子どもたちの学習支援」
講師:オチャンテ・村井・ロサ・メルセデス氏(桃山学院教育大学准教授、上野教会信徒)
日時:2022年11月12日(土)10時~11時
申込締切:11月10日(木)
https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_72d08fb5e1e2431082da0713ba66d00b.pdf

■待降節第1主日(11月27日)より、ミサの式次第の一部が新しくなります。
新しいミサの式次第の冊子を、教会でまとめて購入しました。ミサの時に希望者にお渡ししますので、受け取りになられたら必ず冊子にご自分のお名前をご記入ください。なお、1冊100円の献金お願いします。

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■年間第31主日のミサ
https://youtube.com/watch?v=OFScGZVsClA&feature=share&utm_source=EKLEiJECCKjOmKnC5IiRIQ

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ19章1~10節)

(そのとき、)イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、正面から救いとは何かという問題を取り上げています。そこでわたしたちも、救いとは何かということを考えていきたいと思います。

救いには大きく分けて、3つの捉え方があると思います。第1のものは、自分の努力や改心、反省や修行、祈りや瞑想によって、救いを手に入れるというものです。その手法は、自力による自己完成であり、どこまでもいっても、自力で救いを得られると考え、自己の完成、聖性、離脱を目指していくものです。しかし、救いや聖性を自力で手に入れられるなら、イエスさまなどいらないわけですから、ザアカイのようにイエスさまを求める必要もありません。なぜなら、自分で自分を救い、幸せにすることができると考えているからです。自分を目的にしている限りそれは救いではなく、自己修養、自力作善の世界です。これはカトリックの中にも度々現れる考え方で、自分で信仰を深めて、自力で神さまに到達することができるという考え方です。これは、ファイリサイ主義と言われ、真の救いでないことは明らかです。

第2は、現代のスピリチュアルブームとも関係していて、いわゆる救われたという体験をし、その体験を絶対化していくものです。わたしたちも人生のどこかでイエスさまと出会い、何か心を揺さぶられるような体験をして、奉仕に献身しようと思ったり、ボランティア活動をしようと思ったり、召命の道を歩んだりすることがあります。ザアカイのイエスさまとの出会いもその類で、彼は自分の財産を貧しい人々に分かち合います。このように、人生のどこかで、イエスさまと出会うという体験があることは確かです。しかし、その人がイエスさまと出会ったということは真実でしょうが、その体験はその人の体験であって、すべての人のための真実ではありません。しかも、わたしは出会ったと言うとき、その出来事はすでに過去の出来事になってしまいます。にもかかわらず、その過去の体験を絶対化し、普遍化していこうとします。そのような人たちは、また自分を揺さぶるような出会いの体験をしようとして、そのような体験にしがみつき、またそれに他の人にも熱心に勧めます。そのような神体験、宗教体験はドラッグのようなもので、神体験依存症となっていき、そのような体験を救いと錯覚していきます。特別な崇敬や信心、ご出現への信心などはそのような危険性を抱えています。

第3のものは、一般的にカトリックで広く教えられているものです。イエスさまの受肉、十字架の贖いと復活は2千年前にすでに成就しており、人類は救われている。だから、わたしたちの救いも決まっているので、頑張ってイエスさまを信じて、よい信者になり、よい死を迎えれば、それで永遠のいのち、天国が約束されているという考え方です。そのためには、出来るだけ罪を避けて、善を行い、清い心を保って、しばしば告白して、聖性の恩恵を失わないように生活するという考え方です。救いを死後の世界に、来世に設定することで、今生をよりよく生きようとする捉え方です。カトリックの教えや説教を聞いていると、ほとんどがこのような類です。現代では、社会貢献や社会連帯、エコロージーと姿を変えていますが、いずれも全人類と共生連帯して、皆を霊的キリスト教化、カトリック化することでよい社会を作るという善意の発想で、来世では永遠の幸せが約束されていると考えています。非常に分かりやすく、説得力もあるのですが、そうなっていくと、教会はただの慈善団体、公益法人化していきます。悪いことをしているわけではありませんから、表立って批判はできませんが、宗教本来の人間を問うというところから、焦点がずれていると言わざるを得ません。それだけなら、イエスさまとの関わり抜きでも救いが成り立つことになってしまいます。羊頭狗肉のようなもので、イエスさまを看板にして善意に溢れていますから、これが救いの本質から人心を惑わす一番厄介なものではないでしょうか。自分たちはカトリック教徒であるという無意識の所属意識からくる安心感と使命感のもとに、イエス抜きのキリスト教になってしまうという危険性を孕んでいます。こられの多くの場合、イエスさまとの人格的出会いではなく、神さまへの漠然とした信仰心が特徴となっており、通常その危険性が問題視されることはほとんどありません。

以上の3つの救いの捉え方は、人間的に見れば必ずしも間違いとは言えませんが、真の救いとは言えません。なぜなら、いずれも人間の業、人間の理念、人間の体験、人間の基準に依存しており、そこにイエスさまが入り込む余地がありません。結局、それらは人間の思い込みや人間のはからいであって、人間が作り出したものでしかありません。それでは、人間の思いやはからいが入らないイエスさまとわたしとの出会いのとき、救いというものがあるのでしょうか。そのことが、実は今日の福音の中で言われていることなのです。

それでは、ルカは救いをどのように捉えたのでしょうか。イエスさまとザアカイとの出会いの物語で、「今日、この家に救いが訪れた」という言葉で描かれていることです。つまり、救いを過去の十字架の出来事とか、自分の神体験とか、将来の死後のこととして捉えるのではなく、今日のこと、今生きているこのとき、この刹那のときのこととして捉えているということです。

実は、わたしたちが感謝の祭儀でしていることはそのことなのです。神のみことばを聞くこと、毎日の生活の中でも同じことです。十字架の出来事の現在化、神のことばの現在化です。今、イエスさまがわたしを贖い、今、イエスさまのことばがわたしに届いている。わたしは、今というときしか生きることはできないわけですから、今、わたしはイエスさまに聞き、今、わたしはイエスさまと出会うことしかできないのです。今という瞬間の中に、わたしの現在も過去も未来もあるのです。今こそ恵みをうけるとき、今日こそ救いの日なのです。過去の出来事に拘ってなんの意味があるでしょうか。過去は変わりませんし、もう“ない”のです。明日のことに期待をかけてどうするのでしょうか。明日はまた明日であって、わたしに明日というときは永遠にやって来ない、つまり明日というときは“ない”のです。わたしには、今という瞬間しかない、今を生きることしかできないのです。救いは、過去の出来事でも、未来のことでも、死後のことでもありません。今のことなのです。イエスさまは、今、わたしに呼び掛けておられ、今、わたしに出会いに来られているのです。しかし、そのことに気づいたと言ったとき、そのことはもう過去になってしまっています。だから、わたしは、今というこの瞬間にイエスさまと出会うことしかできないのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。