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教会からのお知らせ

王であるキリストの福音と勧めのことば

2022年11月20日 - サイト管理者

♰主の平和

寒くなってきましたが、お変わりありませんか。
今年の典礼暦もあと1週間で終わりです。
いよいよ待降節。
新しい典礼暦に入ると、新しいミサの式次第が使用されます。
どきどきわくわくしながら、戸惑いながら、時々間違えたりしながら、新たな歩みを始めていきましょう。

■今後のミサ予定
11月
19日㊏ AC地区 王であるキリストのミサ 10:30
20日㊐ BD地区 王であるキリストのミサ 10:30
26日㊏ BD地区 待降節第1主日のミサ  10:30
27日㊐ AC地区 待降節第1主日のミサ  10:30
12月
3日㊏ AC地区 待降節第2主日のミサ  10:30
4日㊐ BD地区 待降節第2主日のミサ  10:30
10日㊏ 第2週につき、ミサはありません
11日㊐ 第2週につき、ミサはありません
17日㊏ BD地区 待降節第4主日のミサ  10:30
18日㊐ AC地区 待降節第4主日のミサ  10:30
24日㊏ AC地区 主の降誕日中のミサ  10:30
25日㊐ BD地区 主の降誕日中のミサ  10:30

ミサでの答唱詩編、アレルヤ唱は朗読します。
ミサ参加後2日以内に感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守電にご連絡ください。詳細は9月17日㊏にお送りしましたメール「ミサ実施要項」を必ずお読みください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

■11月20日は、第37回「世界青年の日」です。フランシスコ教皇のメッセージです。
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/11/04/25776/

■11月20日~27日は聖書週間です。リーフレット『聖書に親しむ』が読めます。
https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2022/08/bibleweek2022.pdf

■11月13日に河原町教会で行われた京都南部地区合同堅信式で、中学生の下津善哉さんが堅信を受けられました。また明日、井上誠司さんが高野教会のミサの中で堅信を受けられます。おめでとうございます。お二人の上に、聖霊の豊かな恵みがありますように。

■京都教区高校生会「冬の集い」の案内が届いています。詳しくは教区のHPをご覧ください。
https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_00f9e19e420944c8ba793d8b62ec17bf.pdf

■待降節第1主日(11月27日)より、ミサの式次第の一部が新しくなります。
新しいミサの式次第の冊子を忘れずにお持ちください。冊子には必ずお名前をお書きください。

■11月は死者の月です。11月中の主日のミサの中で、死者のための祈りが捧げられます。
お祈りを依頼されます方は、聖堂後ろに置いてあります所定の封筒に、祈ってほしい方のお名前をお書きの上、お志を入れてミサ開始の10分前までに奉納盆に置いてください。

■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■王であるキリストのミサ
https://youtu.be/2kvipXXPpAw

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福音朗読 ルカによる福音(ルカ23章35~43節)

[そのとき、議員たちはイエスを]あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、年間最後の主日、王であるキリストの祝日です。さて、イエスさまが王であるという意味は、どのような意味なのでしょうか。今日はそのことを考えてみたと思います。今日の福音の中で、十字架につけられているイエスさまの頭上には「これはユダヤ人の王」という札がつけられており、十字架につけられている強盗も「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言い、イエスさまを王として仰いでいる姿が描かれています。普通、王さまがいるということは、国土があって、その国民がいるということになります。イエスさまの時代には、メシアの到来によって神の国が完成するという考え方が広まっていました。そして、イエスさまご自身も「神の支配」を意味する「神の国」の福音を告げ知らされました。その福音のメッセージの中から、イエスさまがどのような国を神の国と考えておられたのかということを垣間見ることができます。当時のユダヤ人の考えていた神の国は、あくまでもユダヤ人を中心とした覇権主義的なユダヤ人国家であり、そこに諸民族が集うようなものが考えられていました。しかし、そのような国家はどこまでもいっても、王と国民がいて、そして国土という国境線をもち、歴史のある時期の統治形態であり、国民と国民でない民族によって分けられているようなものでしかありません。

しかし、イエスさまが宣教された神の国とは、ユダヤ教という枠組みを取りながらも、それまでの民族宗教をまったく超え出たものでした。その特徴は、ユダヤ人だけに限定されない、国境線をもたない、生死がない世界であると言えばいいでしょう。当時の人々には、そのような言い方しかできなかったのでしょう。イエスさま自身が「神の国は、○○にたとえられる」と言われ、神の国について明確に言及されるということはありませんでした。それは人々が安易に、神の国をユダヤ人の望みが叶い、ユダヤ人の国家が再興され、領土が拡大し、その統治が代々に続き、国民の生活が安定し、その生存が保障されるようなものとして錯覚することを避けるためでした。言葉を変えて言うならば、神の国は、ユダヤ人の望みが叶うようなものではないように、わたしたちの望みが叶うようなものではなく、国境や領土というような場所とか時代に影響を受けるものでもなく、わたしたちが考えるようなこの世での安寧や死後のいのちを保証するような楽園や天国でもないことを意味しています。人間はどこまでにいっても、自分を中心にしたものの見方しかできません。ですから、神の国について考えるときも、自分たちの望みや願いが叶うようなものとしてしか捉えることができないのです。

そして、自分たちは救われたものとして、神の国の住人であるかのような顔をして、救われていない人に教えるという発想になりがちです。よく、カトリックでは、洗礼を受けていない人を未信者という言い方を平気でしていますが、それは、自分たちは洗礼を受けて信者になっているが、あの人たちは未だ洗礼を受けていないという前提に立った言い方です。どの宗教でもそうですが、救われた人と救われていない人、洗礼を受けた人と洗礼を受けていない人、助かった人と助からない人という区別を設けて、自分はどこまでも救われた側に立ち、人を助ける側、救う側に立とうとします。しかし、これは、結局は人を助ける立場になりたいという自我を充たすための我執から出てくる欲望に他なりません。人を助ける立場に立つということは、自分が上に立って、救われた立場に安住する、これが宗教のもっとも醜い差別、区別の姿に他なりません。同じ教えや信仰を共有して満足していく、それは閉鎖的な集団であって、そのようなものを救い、神の国と言えるでしょうか。このような自己満足、また集団満足に安住しないということが、救いの道を求める、神の国の建設のために働くということではないのでしょうか。

ですからイエスさまは、神の国の到来を告げ知らされましたが、同時に皆が考えているような神の国の国境を完全になくし、神の国の住民登録をなくし、神の国そのものの概念を破壊されたのです。イエスさまご自身も王であることを否定し、十字架によって神である自分自身を否定されました。ですから、神の国は「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです(ガラ3:28)」、「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました(エフェソ2:13~16)」とパウロが言うことが実現されていくことなのです。つまり、神の国においては、いかなる区別、差別はない、すなわち国家、身分、性別、学歴がない、救われたものと救われないもの、救うものと救われるものという区別さえ存在しない、もちろん宗教もない、カトリック教会もない、キリスト教もないのです。イエスさまの死と復活によって、今、その働きがわたしに届いている姿が神の国なのです。

ですから宗教の本来の使命は、自らがなくなることにあります。自分の宗派の教勢を広げることではありません。宗教は真実、真理、真如を指し示す指月の指であって、うちの宗派がどう、うちの教会がどう、うちの宗教がどうということが目的にならないこと、これが本当の宗教です。ですから神の国は、キリスト教で言われる真理そのものであると言えるでしょう。イエスさまはその生涯、その死と復活によって、イエスさまの働きが一定の場所と時間にしか及ばないという限界を破壊し、すべてのとき、すべてのところ、遍く全宇宙をご自分のいのちと光で満たされたということなのです。だからもはや、その光が届かないということがない、影というものがない、全宇宙の隅々までその光といのちですべて満たされているということなのです。だから神の国はいつか実現するという話ではなく、この宇宙すべて満たす働きとなったということ、別の言葉で言えば、イエスさまは十字架の死と復活によって、イエスさまは王であり神であるご自身を否定することによって、神の国の国境をなくし、神の国自体を破壊された、その働きがすべての生きとし生けるものに届いている姿が神の国なのです。それなのに、カトリック教会は王であるキリストを祝っているというのは滑稽ではないでしょうか。

しかしながら、わたしたちはどれだけ説明されても、たとえで話されても、分からないのです。なぜなら、わたしが自分の世界に閉じこもっており、自分の頭でしか理解しようとしないからです。しかし、それにも関わらず、そのわたしたちには、神の国が届いており、目覚めよと叫ぶ声が届いているのです。その状態、その働きを指して、神の国というのです。そこには、もはやわたしたちが考えるような国土も国民も王もいないのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。