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教会からのお知らせ

待降節第3主日の福音と勧めのことば

2022年12月11日 - サイト管理者

♰主の平和

待降節も半ばを過ぎました。
待降節第3主日は、昔から「喜びの日曜日」と呼ばれています。
この日、本来ならば、高野教会の祭壇前に飾られたアドベントクランツのばら色のろうそくに火がともり、司祭のカズラもばら色を着用されるのですが、ミサがない週なので残念です。でも、喜びのうちに、祈りのうちに過ごしたいと思います。

喜びの源である父よ、
御子キリストの誕生を心から待ち望むわたしたちを顧みてください。
喜びのうちに降誕祭を迎え、この救いの神秘を祝うことができますように。
(待降節第3主日の集会祈願より)

■今後のミサ予定 
12月
10日㊏ 第2週につき、ミサはありません
11日㊐ 第2週につき、ミサはありません
17日㊏ BD地区 待降節第4主日のミサ  10:30
18日㊐ AC地区 待降節第4主日のミサ  10:30
24日㊏ AC地区 主の降誕日中のミサ   10:30
25日㊐ BD地区 主の降誕日中のミサ   10:30
31日㊏ BD地区 神の母聖マリアのミサ  10:30
1月
1日㊐ AC地区 神の母聖マリアのミサ  10:30   

地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原

ミサ中の朗読、共同祈願などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。
ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守電にご連絡ください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。

■年末が近づいてきました。お祈りやご奉仕など、今年も高野教会を様々な形で支えてくださりありがとうございました。今年度の教会維持費をまだお納めになられておられない方は、できるだけ年末までに納入してくださいますようお願いいたします。
維持費納入は、以下のいずれかの方法でお願いいたします。
① ミサの時に献金箱に入れる
② 司祭館のポストに入れる
③ 銀行振込

■待降節第1主日(11月27日)より、ミサの式次第の一部が新しくなりました。新式次第を使用してのミサです。ご自分のミサの式次第の冊子を忘れずにお持ちください。冊子には必ずお名前をお書きください。

■京都みんなで捧げるミサ 
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■待降節第3主日のミサ
https://youtu.be/tBY_yrgwz0M

■京都教区中学生会冬の集いの案内が届いています。
日時・場所:12月29日(木)14:00・河原町教会
詳細は教会の掲示版のポスターをご覧ください。

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福音朗読 マタイによる福音(マタイ11章2~11節)

[そのとき、]ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。
預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、洗礼者ヨハネの不信という問題が描かれていきます。洗礼者ヨハネは、イエスさまに洗礼を授けるとき、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」ということばを残しています。洗礼者ヨハネは、イエスさまこそがメシアであると絶大な信頼を表していました。そのヨハネがヘロデに捕らえられ、牢に入れられてしまいます。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」ということばで、今日の福音は始まります。ヨハネは自分の弟子たちを送って、イエスさまに尋ねさせます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか」と。ヨハネの動揺が伝わってくる言葉です。ヨハネは、何に動揺したのでしょうか。ヨハネがいのちがけで到来を準備したイエスさまは、自分の思っていたメシアとは、まったく異なっていたのです。ヨハネは自分の確信がガラガラと音を立てて崩れるほどの、深い深い疑いの淵に突き落とされたのです。もはやヨハネは、イエスさまを信じることができなくなってしまいました。そう聞くと、わたしたちは洗礼者ヨハネでもそうだったんだ、だからわたしがそうそう信じられるものではないと安心します。しかし、そうではないのです。そもそも、信じることがどういうことかが問題なのです。

わたしたちは、たいていの場合は、わたしが頑張って、努力して、精進して信仰を強くできるんだと考えます。そして、疑わない心が信仰であると考えています。つまり、信仰はわたしたちの心で起こるわたしの心のもち方であって、その心のもち方如何で救われるのだと思っています。しかし、わたしたちが○○を信じるというときに、信じる対象は必ず不確実なものです。そもそも、確実なもの、目に見えて確認できるものをわたしたちは信じるとは言いません。信じるのは、疑っているから信じようとするのであって、信じることと疑いはコインの表裏のようなものなのです。ですから、信仰をわたしの心のもち方だと捉えている限り、疑いがなくなるということはありません。ただ、教会学校卒業程度で、何となく漠然と信じているだけなら、そもそも疑いは起こらないし、信じるということが問題になることもないでしょう。しかし、わたしたちが真摯に信じようとすればするほど、疑いの闇も深くなっていきます。しかし、それは当然なことなのです。

また、わたしの信仰は確実だとか、あの人の信仰は深いというとき、それはすべてわたしの心の捉え方を基準にしているのであって、それが確実であることを証明するものは何もありません。よく祈れたとか、信仰が深まったとか言っているのは誰でしょう。結局は、わたしがわたしの心を見て、そう思っているだけなのです。そして、わたしたちはどうしたらもっと信じられるようになるのか、どうしたらよりよく生きられるようになるのか、どうしたらイエスさまのことを感じられるようになるのか、全部どうしたらどうしたらということであって、そこに莫大なエネルギーを費やしています。わたしたちの心のあり方が、救われたという救いの証拠にはならないのです。救いとは、自分の心が安定して楽になることでも、自分の心が気持ちよくなることでも、恍惚を体験することでもありません。

しかしながら、わたしたちは、わたしの心を抜きにして信じることはできません。ということは、わたしたちの心から疑いを完全になくすということは不可能だということです。こうすれば疑いがなくなるとか、こうすれば信仰が強くなるとかというような教えは嘘っぱちで、イエスさまはわたしたちに疑わない、信念の人になりなさいと言われたわけではありません。イエスさまのことばには、「信じないものではなく、信じるものになりなさい」というのもありますから、疑いがいけないことだと言われているように思ってしまいます。しかし、イエスさまご自身、十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という人間として、最大の疑いを吐露しておられるのです。わたしたち人間は疑うものであり、わたしたちの中に疑いなく信じられるような真の心などない、疑いのない信仰などわたしのうちにはあり得ないということなのです。どういうことでしょうか。

イエスさまはヨハネの弟子たちに、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と言われました。イエスさまは見聞きしていることを信じるように言われたのではないのです。自分が見て、聞いたことを信じるのであれば、それはどこまでいっても信仰はわたしの行為に過ぎません。そうではなく、真の信仰とは、わたしが見て、わたしが聞く以前に、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」こと、救いが起こっているということなのです。わたしの心がどうのこうのいう以前に、わたしの心のもち方とかあり方にまったく関係なく救いが実現していること、わたしの心というはからいが入らないところで、イエスさまの救いのみ業、「福音が告げ知らされている」ことが救いであって、そのことに気づかされることが信仰なのです。信仰は、わたしが救われたいとか、わたしが信じるとか、そのような心が起こるとか、わたしがああしたいこうしたいという望み以前にすでにあったもの、わたしの心が起こしたものではなく、イエスさま側にあって、イエスさまから与えられてきたもの、そのこととわたしがひとつになる出来事、それが信仰という出来事なのです。そもそも信仰と訳されているピステスということばは、わたしが何かを信じるというわたしの行為を指す言葉ではなく、そこに現成している真実、真理を意味することばなのです。

わたしたちは、自分の心から疑いをなくすこともできない、しかし、信じ切ることもできない。どうにもならないのがわたしの心なのです。そのわたしはわたしの心を信頼している、つまりわたしがわたしに頼っているのにすぎないことが、イエスさまによって見抜かれているのです。そのどうすることもできないわたしたち人間というものを知って、それでもわたしを救うと言われる方、わたしの不信仰も罪も裏切りも、すべてご自分のものとして背負っていかれる真の方、その方をわたしたちはイエスさまとお呼びするということなのです。イエスさまはわたしの不信仰、わたしの罪となって、わたしを救っていかれるのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは、イエスさまの叫びですが、わたしの叫びでもあるのです。そして、そのわたしの叫びは、わたしの内におけるイエスさまの叫びでもあるのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。