主の降誕(日中のミサ)の福音と勧めのことば
2022年12月25日 - サイト管理者♰主の平和
主のご降誕のお喜びを申し上げます。
幼子イエスさまの祝福が、皆さまとご家族の上にありますように。
厳しい寒さとなりました。どうぞご自愛の上、よいクリスマスをお過ごしください。
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■大塚司教様のクリスマスメッセージです。
https://kyoto.catholic.jp/shikyo/2022christmas.pdf
■高野教会便りができました。印刷物はミサの時に聖堂後ろに置きますので、お持ち帰りください。
■京都教区時報2023年1月号が、京都教区のホームページにアップされました。
大塚司教様の年頭書簡が掲載されていますのでお読みください。冊子は聖堂後ろに置いてありますのでお持ち帰りください。
https://kyoto.catholic.jp/jihou/542.pdf
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
ご降誕のミサの配信はありません。
■在留特別許可嘆願署名キャンペーンご協力のお願い(中央協議会、京都教区より)
https://www.cbcj.catholic.jp/japan/statements/zairyukyoka/
在留特別許可嘆願署名キャンペーンの電子署名のChang org.のサイトは、通常、寄附をお願いするようになっていますが、寄附をする必要はありません。
■今後のミサ予定
12月
25日㊐ BD地区 主の降誕日中のミサ 10:30
31日㊏ BD地区 神の母聖マリアのミサ 10:30
1月
1日㊐ AC地区 神の母聖マリアのミサ 10:30
7日㊏ 第2週につき、ミサはありません
8日㊐ 第2週につき、ミサはありません
14日㊏ AC地区 年間第2主日のミサ 10:30
15日㊐ BD地区 年間第2主日のミサ 10:30
21日㊏ BD地区 年間第3主日のミサ 10:30
22日㊐ AC地区 年間第3主日のミサ 10:30
28日㊏ AC地区 年間第4主日のミサ 10:30
29日㊐ BD地区 年間第4主日のミサ 10:30
地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原
ミサ中の先唱、朗読、共同祈願、歌唱などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。
ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ1章1~18節)
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
先週の待降節第4主日の福音で、「わたしはあなたを救う」というイエスの名、エンマヌエル「神は我等とともに」という名が、わたしたちに啓示されました。今日は主の降誕を祝いますが、その名の働き、つまりイエスさまはわたしたちをどのように救われるのかが明らかにされます。キリスト教の宗教としての本質が語られる非常に大切な箇所です。
ヨハネ福音書1章では、イエスさまがいつどこでどのように生まれるのかとか、マリアとかヨゼフのこととか、羊飼いや東方の占星術師のこととか、ベトレヘムのこととか、わたしたちが普段から聞き慣れているクリスマスの光景ついては一切触れることがありません。永遠である神さまが時間と空間の中に入って来られ、人間となられたことが描かれています。神さまが人間となられたわけですから、その人間としての具体的な時とか場所とか、状況とかはもちろんあるはずです。それが、2千年前のベトレヘムということなのでしょう。しかし、ヨハネはそのような人間の側から見て判断できるような状況については一切触れません。みことばの永遠における存在ということが語られ、そのみことばの受肉という、永遠が時空の中に入ってくることが語られています。
みことばである神が人間となられたということは、単に2千年前のベトレヘムの馬小屋での出来事を指すのではありません。永遠が時間と空間を貫いて時空の世界に入ってくること、みことばが人間となり、世となられたということ、神はすべてとなられたということを意味しています。わたしたち人間は世界内存在であって、この世界とわたしたちはばらばらに存在するものではなく、その関係性は不可分です。わたしたちとこの世界、宇宙は密接に関わりあって、繋がっていて、この世界、宇宙なくしてわたしが存在するということはありませんし、またわたしなくしてこの世界、宇宙は存在するということもありません。わたしはこの世界、宇宙の一部であり、わたしはこの世界、この宇宙なのです。人間同士の存在もそうです。わたしはひとり存在しているのではなく、多くの人々との繋がりの中で存在しています。ですから、神のみことばがひとりの人間となられたということは、神はわたしとなられた、またこの世界、宇宙となったということでもあるのです。
但し、それは神という存在が先にあって、その神がこの世界や宇宙を創造したという意味ではなく、永遠ということは、もとより神はこの世界、宇宙そのものであったということに他なりません。どういうことかというと、2千年前にイエスというひとりの人間によって、この真理がこの世界に啓示されましたが、イエスさまが神さまであるということは、イエスさまは永遠であるということであり、永遠であるということは、時間と空間の次元の外にあって、わたしたちの次元を超えた真理そのものであり、みことばの受肉によってそうなったという意味ではないということです。この真理は、わたしたちが知る、知らないに関わらず、わたしたちが信じる、信じないに関わらず、とっくの昔に発見されているというか、この宇宙の歴史以前というか、歴史という時間軸と空間を超えて、すでに現成している真理そのものなのだということなのです。そして、もとよりわたしたちは真理の内にいるということなのです。みことばの受肉ということを通して、人間に啓示されたということなのです。難しいですが、理解しようとせずに味わってみてください。
アウグスティヌスは、イエスさまとの出会いによって、この真理に気づかされた体験を「これほど古く、これほど新しい美よ、わたしはあなたを愛するのにあまりにも遅かった」と言い、ゲーテは「真理は見出されてすでに久しい。気高い精神たちはこれによって結びついた古き真理が真理をつかんでいる」と言っています。ヨハネ福音書は、イエスさまによってわたしたちに啓示された真理を描いているのです。
多くの人たちは、宗教を信じたり、信仰をもったりすると人間の心が浄められて、悟りの境地に至って救われるというように考えているかもしれません。そして、ひとりでも多くの人がそのような境地に立てるように教勢を広めることが、宗教の役割だと考えています。昨今の宗教2世の話などは、まさにそのような狭い立場に立って宗教を捉えようとしたものであるといえるでしょう。しかし、主の降誕は、人知を超えた真理そのものがひとりの人間となることによって、人類に真理を啓示された出来事であると言えるでしょう。その方法は、真理そのものが人間となる、つまりわたしとなる、世界となるということによってです。そして、その真理は、何かわたしたちを離れた遠いところや別の世界にあるものではなく、またキリスト教だけのものでもなく、その真理はわたしたちの中に、この世界のうちに現成しているということなのです。そして、わたしたちが、その真理に気づくことこそが救いなのです。わたしたちの状況がよくなるとか、幸せになるとか、病気がよくなるとか、自分の思いが叶うというような類のことではないのです。
先週の福音の中で、イエスという名は、「わたしを救う」という名、「わたしはあなたとともにいる」という名であり、そのことばがわたしに呼びかけられていることが明らかされました。そして、わたしたちが、わたしに届けられているその働きに気づくことが救いなのです。「こうしたら救われる」「ああしたら救われる」というわたしのはからいの世界ではなく、みことばの受肉において、永遠においてすでに現成しているそのことに気づくとき、時間を貫いてわたしの中に永遠が入ってくること、そのことが救いなのです。2千年前の話でも、死んでからのことではありません。ただそこのことを知らせるために、みことばは人間となられ、わたしたちの中に救いがあることを教えてくださいました。救いは遠きにあるのではなく、わたしの中にあるのです。