年間第2主日の福音と勧めのことば
2023年01月15日 - サイト管理者♰主の平和
高野教会を支えてくださっていた方々が、お一人、またお一人と神様のみもとに行かれます。
高野教会がメリノール宣教会によって1938年に創立されてから、多くの神父様やシスターはもちろんのこと、多くの信徒の方々が教会を支えてくださったのだとしみじみ感じます。
そのおかげで教会は今年85周年、15年後には100周年を迎えることになります。
先人たちに感謝し、祈りながら、できることで教会を支えていきたいと思います。
■衣笠墓苑参道 車両通行止めについて 京都司教区本部事務局より
1/23(月)~28(土) の間、樹木伐採の工事車両通行のため、墓苑参道は一般車両通行止めとなります。徒歩墓参は可能です。
■名誉教皇ベネディクト十六世追悼ミサ
1月11日11:00 司式・菊地功大司教(東京大司教区) 関口教会にて
■司教年頭書簡 分かち合い募集 京都司教区福音宣教企画室より
『コロナ時代を生きる信仰Ⅲ』―わたしのシノダリティを創ろう―を読んで気づいたこと、感想などをお寄せください。
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■年間第2主日のミサ
■京都教区青年のための黙想会のご案内/2月4日(土)
お知り合いの青年にお声掛けください。
https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_1592923a00914fb791f82f63437828e7.pdf
■今後のミサ予定
1月
14日㊏ AC地区 年間第2主日のミサ 10:30
15日㊐ BD地区 年間第2主日のミサ 10:30
21日㊏ BD地区 年間第3主日のミサ 10:30
22日㊐ AC地区 年間第3主日のミサ 10:30
28日㊏ AC地区 年間第4主日のミサ 10:30
29日㊐ BD地区 年間第4主日のミサ 10:30
2月
4日㊏ BD地区 年間第5主日のミサ 10:30
5日㊐ AC地区 年間第5主日のミサ 10:30
11日㊏ 第2週につきミサはありません
12日㊐ 第2週につきミサはありません
18日㊏ AC地区 年間第7主日のミサ 10:30
19日㊐ BD地区 年間第7主日のミサ 10:30
25日㊏ BD地区 四旬節第1主日のミサ 10:30
26日㊐ AC地区 四旬節第1主日のミサ 10:30
地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原
ミサ中の先唱、朗読、共同祈願、歌唱などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。
ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ1章29~34節)
[そのとき、]ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日は、洗礼者ヨハネによるイエスさまの証しについての箇所が朗読されます。その中で、「知る」ということが問題にされています。今日の福音の中でヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」とイエスさまのことを証しします。しかし、その証しの中でヨハネは、「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返し述べています。ヨハネの母親のエリザベットとマリアは従姉妹同士でしたから、ヨハネがイエスさまのことをまったく知らなかったというのは、少し不思議なことです。しかし、ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と断言します。どういうことでしょうか。
知るということは、随分深みのある言葉ですが、現代人にとって知るということは、その人またある事柄についてどれだけ情報をもっているかどうか、ということになっているように思います。そして、どれだけ情報をもっているかということが、その人の価値と結びついていくような社会になっています。SNSがこれだけ発達した社会において、情報はいくらでも集めることができます。それでは、SNSで知り得た情報が、わたしたち人間が生きていくうえでのすべてかと言えばそうではなりません。例えば、キリスト教についてどれだけ知っているかということと、信仰を生きていることとは必ずしも一致しません。また同様に、洗礼を受けてキリスト者であるということと、真にキリスト者として信仰を生きていることとも必ずしも一致しないのではないでしょうか。
現在わたしたちが置かれている状況は、わたしたちはキリスト教とは何かがすでに分かっていて、あとはそれをまだよく知らない人に伝えることが福音宣教だ、というような単純なものではないということです。もし、自分が置かれた状況がそうだと思っているとしたら、洗礼者ヨハネが自分の母親の従姉の子であるイエスについて、知っていることを説明しているのと変わらないということだと思います。洗礼者ヨハネが言おうとしたことは、「わたしは母親の従妹の子であるイエスを知っています。自分はイエスのことを知っているつもりだったけれど、しかし、実は何も知らなかったのだ」と告白したということです。ヨハネはイエスさまと会ったこともあったかもしれません。しかしヨハネは、自分はイエスさまのことを何も分かっていなかった、本当に出会ってもいなかったと言っているのです。これこそ、現代の宗教が置かれているわたしたちの状況ではないでしょうか。いうなれば、洗礼者ヨハネがイエスさまと出会って証したことば、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」ということばを覚えて帰って、それを繰り返しているだけにすぎないということです。それでは、本当の証しとは何でしょうか。
わたしたちがすることは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」という教えを暗記して、その教えを伝えることではないということです。それだけなら、単に宗教的なことばを覚えていることを、信じていることだと思い込んでいるだけであって、そこにはいのちはないのです。わたしたちに欠けていることは、ヨハネが自分は知っているつもりになっていたイエスさまと真の意味で出会ったこと、そして生きたことばを紡ぎ出したこと、このイエスさまとの直接体験、イエスさまとの真の出会いであるということができると思います。どの宗教であっても、その根源にあるものは真の普遍的真理との出会いの体験、わたしたちが宇宙という広大無辺なものの力によって生かされているという自覚に他なりません。そして、その瑞々しい感覚を真実のことばとして紡ぎ出していくことです。そしてそのことばは、それさえあれば、現実がどんなに絶望的であっても、我々は生きていけるというような生きたことばであり、わたしたちを瑞々しい体験へと引き入れてくれる生きたことばです。ですから、そのことを人に伝えるには、わたしがイエスさまと真実において出会い、そのような瑞々しい、生き生きとした感性を呼び起こさなければならないのではないでしょうか。
現代、キリスト教はもう一度、このような生きたことばの感覚をもたなければならないと思います。実は、キリスト教もそのようにして受け継がれてきたのです。単に昔の人の言ったことばや教会の教えをそのまま繰り返すのではなく、自分が聞いたそのことばで言われていることを生き生きと体験し、それを新しく言い直すことがまさに必要とされているのだと思います。新しいことば、生きたことばを使わないと、真理というものは伝わっていきません。イエスさまは救い主だとか、世の罪を取り除く神の子羊だと言っても、それだけでは何も伝わらないのです。イエスさまが救い主であることを、世の罪を取り除く神の子羊であることを、生きたことばで言わなければならないのです。今までも、イエスさまは救い主だ、世の罪を取り除く神の子羊だと、繰り返し言い続けてきたのではないでしょうか。しかし、問題はそのことばや教えがあまりにも概念化し、固定化し、生き生きとした体験につながらない空しいことばになっているということが問題なのではないでしょうか。今や、ことばや教えを伝えるだけではまったく足らないということなのです。まさに、普遍的真理で言われていることを生き生きとした体験へと導く生きたことば、そしてその生きた体験が真に必要なのだと言わざるを得ません。
今、わたしたちはそのようなものをもたない貧しいものなのです。そのような貧しいものであるということは、否定的なイメージ、または批判として受け取られるかもしれません。しかし、知らないと謙虚に認められること、欠けていること、あるいは貧しいものであるという自覚は、普遍的真理に触れ向き合うことによってはじめて気付かされるものでもあるのです。もし、そこに何も問題を感じていないとしたら、それは形骸化したことばや教えで満足しているということに他なりません。今、わたしたちは、改めて自分自身を省み、洗礼者ヨハネが立ち帰った原点に立ち、自己批判していく必要があるのではないでしょうか。聖霊によってヨハネがそのことに気づかされたように、わたしたちをイエスさまとの生き生きとした出会いへと導き入れられるように、聖霊の導きと照らしを謙虚に願いたいと思います。