年間第3主日の福音と勧めのことば
2023年01月22日 - サイト管理者♰主の平和
大寒を過ぎ、寒い日が続いています。
今週は今季最強の寒波が襲来するとか。
コロナに加え、インフルエンザもはやっているようです。
どうぞご自愛ください。
■年間第3主日は「神のことばの主日」です。
https://www.cbcj.catholic.jp/2020/01/24/20015/
■1月18日~25日は「キリスト教一致祈祷週間」です。今年のテーマは、「善を行い、正義を追い求めなさい」(イザヤ1・17 参照)です。
https://www.cbcj.catholic.jp/2022/11/22/25911/
■衣笠墓苑参道 車両通行止めについて 京都司教区本部事務局より
1/23(月)~28(土) の間、樹木伐採の工事車両通行のため、墓苑参道は一般車両通行止めとなります。徒歩墓参は可能です。
■司教年頭書簡 分かち合い募集 京都司教区福音宣教企画室より
『コロナ時代を生きる信仰Ⅲ』―わたしのシノダリティを創ろう―を読んで気づいたこと、感想などをお寄せください。
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■年間第3主日のミサ
■今後のミサ予定
1月
22日㊐ AC地区 年間第3主日のミサ 10:30
28日㊏ AC地区 年間第4主日のミサ 10:30
29日㊐ BD地区 年間第4主日のミサ 10:30
2月
4日㊏ BD地区 年間第5主日のミサ 10:30
5日㊐ AC地区 年間第5主日のミサ 10:30
11日㊏ 第2週につきミサはありません
12日㊐ 第2週につきミサはありません
18日㊏ AC地区 年間第7主日のミサ 10:30
19日㊐ BD地区 年間第7主日のミサ 10:30
25日㊏ BD地区 四旬節第1主日のミサ 10:30
26日㊐ AC地区 四旬節第1主日のミサ 10:30
地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原
ミサ中の先唱、朗読、共同祈願、歌唱などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。
ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
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福音朗読 マタイによる福音(マタイ4章12~17節)
イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、
ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、
暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音は、イエスさまの宣教活動がどのようなものであったかが語られていきます。イエスさまの働きは、イザヤ書を引用して説明されていきます。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射しこんだ」と。
ゼブルンとナフタリはイスラエルの12部族であり、ガリラヤ湖の西側の地域を支配していました。いわゆるガリラヤ地方のことになります。ソロモン王の死後、イスラエル王国は北王国と南王国に分裂しますが、ゼブルンとナフタリは北王国に属していました。その北王国の首都がサマリアであり、南王国の首都がエルサレムでした。紀元前722年にアッシリアが攻めてきて、北王国は滅ぼされてしまいます。そのとき、南王国は北王国を助けようとしませんでした。その後、ゼブルンとナフタリには異邦人が入植して、同化政策が進められました。ガリラヤ地方は正統なユダヤ教でないとして、エルサレム中心の正統性を主張するユダヤ人から差別され、神の約束と救いから除外されたものと見なされてきました。ローマの植民地時代に入り、ガリラヤ地方はローマ帝国支配に対するテロ活動の温床となりますが、相変わらずガリラヤ地方は、エルサレムのユダヤ人から見れば、神の救いから退けられ、除外された人々、地域と見なされていました。このように、イエスさまが生まれた時代のユダヤ教は、分断、差別、憎しみという状況を抱えていたのです。
おおよそ、すべての宗教が根底に抱えている問題は、差別、区別という問題です。宗教自体が救いということを主張する限り、宗教は差別という問題を避けて通ることはできません。つまり、救いということを取り上げるということは、救われたものと救われないもの、聖なるものと汚れたもの、こちら側とあちら側という区別を作り出していくことになるからです。あなたは救われたと言われることで、自分は救われたのだ、特別なのだという意識を作り出していきます。そして、自分は特別であると思うことが、人々を幸福にすると錯覚していきます。こうなると宗教は麻薬になっていき、人々はそのような宗教に依存していき、また宗教も人々を依存させることで宗教的グループを護持しようとして、様々な教派や教えを作り出していきます。イエスさまの時代のユダヤ教というのはまさにそのような状況でした。
宗教がこのようなものであれば、そこで考えられる救いは勧善懲悪の世界です。その世界では、自分たちのグループに加わり、掟を守り善いことをした人たちは救われ、そうでない人は救われないという教えが中心になっていきます。ユダヤ人のそのような状況のなかで、イエスさまが説かれたことは、一切平等の救いということです。そのことが「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射しこんだ」ということばで現わされていることです。
そこでは、イエスさまの働きが光として表現されています。聖書の中では、神さまやイエスさまの働きが、たびたび太陽や光として説明されています。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである(マタイ5:45)」。当時の人々にとって、神さまの何ものも区別しない平等な働きを説明するためには、太陽や光のたとえが分かりやすかったのだと思います。確かに、太陽は小さい草花の上にも、大きな樹木の上にも同じように昇ります。この花には光を注いで、この木には光を注がないということはありません。しかし、太陽の光のたとえでは限界があります。太陽の光は、必ず日向と日陰を作り出します。また太陽が当たった部分は明るくなりますが、その裏は陰になります。その意味では太陽の光は、すべてのものに平等ではありません。
イエスさまが光であると言われるとき、その光は日向と日陰、光と影という区別を一切作り出さない無量無碍の光であるということです。つまり、日向と日陰とか、わたしは特別だとか、救われた救われないとか、清い清くないなどといった区別を一切作り出さない、すべてのものをそのまま包み込み、すべての闇、罪、悪をも貫き通し、いかなるものも妨げとならない光であるということです。それが、イエスさまが光である言われるときの意味です。光というより、すべてを照らし包み込み、すべてを浄める働きであるとも言えるでしょう。影を作り出すような有限な光ではありません。
しかし、そうなると救いというものを主張する宗教は、自分の中に本質的に矛盾を抱えてしまうことになります。なぜなら、善悪の線を引いて、善人の方に来ることで救われると教えるのが多くの宗教の実態だからです。そこからはっきりと分かることは、宗教は特定の人たちだけが救われる特別なものだと考えることや、救われるものと救われないものを作り出すこと自体、宗教として間違いであるということです。宗教でありながら、一部の人々の救いを説くとか、自分の救いだけを考えるということ自体あり得ないことだからです。宗教でありながらそのようなことを言った瞬間に、その教えはまやかしになってしまい、その宗教自体が自己矛盾を抱えることとなってしまいます。イエスさまがされたことは、そのような当時の人たちの間違った宗教観、これこれをした人は救われるとか、こうした人たちは救われないといったような差別や区別を作り出してきた誤った救いの概念を打ち砕くということです。
イエスさまの存在自体が、このように善悪の線を弾いて、自分たちは善人の方に入って安心しているような宗教のあり方への根本的な問いかけであったということができます。それは同時に、現代のわたしたち教会のあり方への問いにもなっているのです。イエスさまの登場によって暗闇に光が射しこんだということは、宗教が作り出してきた救いという境界線を破壊し、人間中心の救いの概念から人々を解放したということなのです。イエスさまが宣べ伝えられた神の国の宣教とは、律法を守った人や洗礼を受けた人だけが救われて入る天国のようなものではなく、そのような誤った囚われを破壊する働きであり、誤った救いからの解放であるということができると思います。そして、そのイエスさまの働きが、すべてのものに遍く注がれる光として述べられているのです。