年間第5主日の福音と勧めのことば
2023年02月05日 - サイト管理者♰主の平和
暦の上では春ですが、寒い毎日です。どうぞご自愛ください。
■今年8月にワールドユースデーがポルトガルのリスボンで開催されます。京都教区は公式日本巡礼団に参加し、5名の参加者を募集します。募集期間は2月下旬から4月20日までです。参加希望者は400字程度の参加理由を添えて、教区本部事務局まで申し込んでください。対象は18~35歳です。
https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_ab10fee0bbfe4a0db3b13de7e1e541b2.pdf
■従来の侍者合宿に代わる研修会「ミサを学ぶⅡ―ミサ、あなたとともに」が、3月25日に開催されます。新5年生以上新中学3年生までが対象で、定員は50名先着順です。教会でまとめて申し込みますので、教育部までお申し込みください。
https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_044a443508034db1998c4b40cba88c9c.pdf
■京都教区時報2月号が発行されました。冊子は聖堂後ろに置いてありますのでお持ち帰りください。
https://kyoto.catholic.jp/jihou/543.pdf
■衣笠墓苑参道 車両通行止めについて 京都司教区本部事務局より
2月6日(月)は大雪のために作業ができなかった樹木伐採のため、墓苑参道は全面通行止めとなります。ご理解ください。
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■年間第5主日のミサ
■今後のミサ予定
2月
5日㊐ AC地区 年間第5主日のミサ 10:30
11日㊏ 第2週につきミサはありません
12日㊐ 第2週につきミサはありません
18日㊏ AC地区 年間第7主日のミサ 10:30
19日㊐ BD地区 年間第7主日のミサ 10:30
25日㊏ BD地区 四旬節第1主日のミサ 10:30
26日㊐ AC地区 四旬節第1主日のミサ 10:30
地区分け
A地区―下鴨、北区、左京区以外の京都市、京都市以外
B地区―高野、田中、北白川、聖護院、浄土寺、吉田、NDシスター
C地区―松ヶ崎、修学院、山端、一乗寺
D地区―岩倉、上高野、静市、鞍馬、八瀬、大原
ミサ中の先唱、朗読、共同祈願、歌唱などの奉仕をしてくださる方は、どうぞ積極的にお申し出ください。
ミサ参加後2日以内に新型コロナの感染が発覚された方は高野教会の感染専用のメールアドレスにまたは留守番電話にご連絡ください。
感染防止対策の上、基本的にはご自分の地区のミサに与ってください。
また、どの教会も人数制限などの措置を行っていますのでご注意ください。
京都教区では、主日・守るべき祝日のミサにあずかる義務は免除されています。
体調に不安のある方は、ご自宅でお祈りください。
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福音朗読 マタイによる福音(マタイ5章13~16節)
[そのとき、イエスは弟子たちに言われた。]
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音では、「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われています。今日の箇所で大切なことは、イエスさまは「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われたのであって、「あなたがたは地の塩、世の光になりなさい」と言われたのではないということです。多くの場合、わたしたちは聖書のいろいろな箇所を読むとき、それをイエスさまからの命令、掟、「○○しなさい」、あるいは「○○になりなさい」というように読んでしまっているということです。確かに、聖書の中で「○○しなさい」という箇所もあるのですが、そうするとイエスさまの教えというものは、道徳的な規範や掟を指示したということになってしまいます。道徳を教えるだけであれば、いろいろな時代の偉人たちの教えもあり、旧約聖書の律法だけでも充分なはずです。イエスさまが教えたことは、道徳や人の道ではないのです。今日の箇所も間違って読むと、あなたがたは頑張って地の塩、世の光になりなさい。そうしてあなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。そうすれば、人々はあなたがたの立派な行いを見て、神さまをあがめて、人々が教会に来るでしょう、といった間違った自己中心的な宣教観をもってしまうことになります。その時点で、教会は慈善団体かNPO法人になってしまい、宗教ではなくなってしまいます。
イエスさまが言われたのは、あなたがたは自分の力で頑張って世の光になれ、地の塩になれ、人々の模範になれ、社会貢献しなさいと言われたのではありません。そのようことは、実はイエスさまとの関わりを深めていけば、わたしが世の光、地の塩になるなんてことは間違ってもあり得ないことが知らされてきます。なぜなら、イエスさまと出会えば、わたしたちが自分の心を運んで、イエスさまの方に近づこうとすることそのものが迷いなのだということが知らされてくるからです。いろいろな努力や修行をして自分の心を何とかしていこうというのは迷い、罪の中で最たるものなのです。方向がまるで違うのです。わたしが世の光、地の塩になるのではなく、世の光、地の塩であるイエスさまご自身が、わたしに現れてくることを宣教というのです。イエスさまがわたしの中で働かれることが宣教であって、わたしが自分の心をどうにかしようと思っていることが間違いなのです。その間違いに気づくときに、ふっとわたしの中でイエスさまが働いて、光を輝かせてくださる、塩味をきかせてくださるということなのです。宣教といいながら、わたしというものがあったらそれは自我の匂いがした、バター臭いものになってしまい、イエスさまの何も伝わりません。
「伝わるはよし、伝えんとするは悪し」ということばがありますが、光は自ずから自然と周りを照らしていきます。『「山の上にある町は、隠れることができない」、「ともしびは、燭台の上に置く」。そうすれば、家の中のものをすべて照らすのである』、というときの「そうすれば」は恣意的な結果を誘導することばではなく、「自ずから」という意味です。光は、頑張って周りを照らしてやろうとかいうような、自分の匂い、はからいがありません。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と訳されている言葉は不正確な訳であって、本来は「あなたがたの光が人々の前で輝くようにせよ」という意味であって、わたし個人の恣意的な働きを命じるものではなく、わたしに与えられている光そのもののもつ自ずからの働きを発揮させなさいという意味なのです。わたしたちはその働きを妨げないようにということなのです。
イエスさまは「あなたがたは、頑張って、努力して、地の塩、世の光になりなさい。そして、頑張って神の国を言い広めなさい」と言われたのではありません。そうではなく、「あなたがたは気づいていないかもしれないけれど、あなたがたは地の塩、世の光になっている。あなたがいるというそのことだけで、あなたの存在は他の人を生かし、光となっている。あなたは他の人、この世界、この宇宙のためになっている。同じように他の人々も、他のいのちもそうだ。そして、あなたも他の人から生かされ、光を受けているのだ」という意味なのです。このようなわたしたちとこの世界の、この宇宙とのあり方をイエスさまは伝えようとされたのです。塩を塩足らしめているのは、塩味を感じるものです。塩味を感じるものがあってはじめて、塩は世の塩となるのです。光を光足らしめているものは、光を受けるもの、光によって照らされるものによってです。光を感じるものがあってはじめて、光は世の光となるのです。この世界で何も自分ひとりだけで存在しているものはありません。すべては、お互いの繋がりの中に生きているということなのです。
わたしたち人間も、自分ひとりだけで生きていくことはできません。わたしの体内にいる何十兆個の細菌やウイルス、空気、水、光、ありとあらゆる物質を構成する素粒子等を排除し、「わたしが」と意識している存在だけでは生きていくことができないのです。わたしとこの世界はすべて繋がっており、わたしたち人間が勝手に環境と呼んでいる周りすべてのものがわたしを形作っており、環境なしにわたしは存在し得ず、わたし自体が環境、生態系のひとつなのです。そしてこの全宇宙とわたしとは繋がっており、このわたしひとりを生かせるために全力で働いてくれているのです。そのことがはっきりわかると、わたしの中で働いている光も塩味もわたしのものでないことがわかります。そのことに先ずあなたが気づき、わたしたちは生かされている、そしてお互いに生かし合っている、そのことを皆に明らかにしなさいということなのです。その気づきを失わせるものが、「わたしが」という意識であり、その「わたし」という意識が、わたしと「わたしでない」世界とを分け隔ててきているのです。この「わたし」を破る働きが、神の国の福音に他ならないのです。
神の国の福音は難しいことではありません。難しくさせているのはわたしが何とかしようと思うこと、わたしのはからいです。わたしたちが地の塩、世の光にならなければならないと思わなくても、わたしたちはすでにイエスさまの光によって照らされ、塩味をつけられているのです。たとえわたしたちが、照らされている、塩味をつけられていると感じないとしても、確かにわたしたちはイエスさまによって照らされ、塩味をつけられているのです。なぜなら、それはイエスさまの働きであって、わたしたちの思い、感覚とは関係がないからです。そのことを、先ずわたしが気づかなければ、わたしは闇の中に沈んだままです。しかし、そのことに気づき、そのことを味わうときに、光はわたしを通して自ずから広がっていくのです。わたしたちにとって大切なことは、光であるイエスさまによって照らされたままになること、真理であるイエスさまによって塩味をつけられるままになることなのです。