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教会からのお知らせ

四旬節第3主日の福音と勧めのことば

2023年03月12日 - サイト管理者

♰主の平和 

春の日差しに心が躍ります。先週の日曜日から、3年ぶりの全地区合同ミサとなりました。久しぶりにお会いできた方々と、マスク越しの笑顔を交わし合い、再会を喜び合いました。次のミサは、19日、四旬節第4主日です。

■今後のミサ予定

3月より全地区合同のミサに戻りました。ミサは日曜日10時半の1回だけです。

毎月、第2日曜日のミサはありませんが、4月9日は復活祭で第2日曜日ですが、復活祭のミサは行われます。また、4月7日聖金曜日は、午後3時より主の受難の典礼が行われます。聖木曜日の主の晩さんと復活徹夜祭の典礼は行われません。

ミサの受付は10時から始めます。早く到着された方は、聖堂内でお待ちください。ミサに来られる際は、引き続き感染防止対策をお願いします。しばらく受付での記名は続けます。

■京都教区人事異動のお知らせ

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_c70e01a3c0b34b578486f71731251631.pdf

■京都チェジュ姉妹教区交流委員会からのお知らせ

コロナ禍のため2020年以降中止していたチェジュ教区の「聖母の夜」行事参加を含めたチェジュ島聖地訪問・平和巡礼の旅を再開し、企画しました。ご参加ください。

https://www.kyoto-catholic.net/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B8%E3%83%A5%E5%B7%A1%E7%A4%BC

■京都教区中学生会春の集いの案内が届いています。中学生の皆さんにお知らせください。

3月30日㊍13:30 唐崎メリノールハウスにて

https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_9720c0f5363d43cb96ac6d09081c5c03.pdf

■京都みんなで捧げるミサ 

https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ

■四旬節第3主日のミサ 

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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ4章5~42節)

[そのとき、イエスは、]ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまとサマリアの女の出会いの物語です。聖書朗読は5節からですが、3~4節に「(イエスは)ユダヤを去り、再びガリラヤに行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」という興味深いことばがあります。普通、ユダヤ人がガリラヤに行く場合、エルサレムからサマリアを通ってガリラヤに行けば直線距離で近いのですが、わざわざヨルダン川を渡って北上するという遠回りのコースを使っていました。その理由が、今日の箇所の中に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」と書かれています。サマリア人とユダヤ人は数百年に及ぶ怨恨があって、お互いに憎しみ合う関係でした。ですから、ユダヤ人のイエスさまがガリラヤに行くとき、サマリアを通るということは普通ならあり得なかったわけです。それなのに、イエスさまは「サマリアを通らねばならなかった」と書かれています。どうしてでしょうか。

それは、イエスさまが渇いておられたからです。今日の話を表面的に読むと、旅の途中のイエスさまは喉が渇いて、サマリア人の女に水を所望されたぐらいにしか読めません。そこで、このサマリア人の女性と出会って話をして、この女性を信仰に導かれたというのが大まかな話の筋です。しかし、そのように捉えると、イエスさまの渇きというものは一種のきっかけで、それを通してこの女性を信仰に導かれたというような話になってしまいます。

 

しかし、このイエスさまの渇きというのは、単なる身体的な喉の渇きではなく、このサマリアの女への唯一無二といえるイエスさまの魂の渇きなのです。このサマリアの女が特別だという意味ではなく、このサマリアの女は人類のシンボルで、イエスさまは人類の救いに飢え渇いておられる、イエスさまの魂の渇きを現しているといえるでしょう。イエスさまの魂の渇きは確かに普遍的であり、すべての人に対するものなのですが、このサマリアの女と出会わなければならなかったということは、イエスさまの渇きは、同時にまったくわたしひとりのためなのだということでもあるのです。イエスさまは全人類の救い主ですから、すべての人に等しく及びますが、その愛は決して抽象的な絵にかいた餅のようなものではなく、わたしひとりへの愛であるということなのです。教会では、イエスさまはわたしたち全人類を愛しておられるという言い方をしていますが、イエスさまは全人類の中のひとりであるわたしを愛しておられるのではないのです。それだけなら、どこまでいっても、イエスさまの愛は他人事です。わたしたちは、イエスさまのことをぼんやり聞いているだけに過ぎません。

イエスさまが全人類を愛しておられるということは、このわたしひとりを愛しておられ、わたしとの出会い、わたしの愛に飢え渇いておられるということなのです。イエスさまは、必ずわたしひとりの名前を呼んで、「あなたを愛している」といわれているということなのです。イエスさまはわたしたちひとり一人を固有名詞で呼んでおられます。100人の中のひとりではないのです。教会の祈りはすべて「わたしたち」になっていて、教会共同体という意味で、わたしたちは共同体として呼ばれているというのは確かにそうなのですが、イエスさまの愛は本質的にはわたしひとりのためであるということなのです。

歎異抄の中に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」ということばがありますが、これは決して、神仏の救いをわたしひとりが独占しようということではなくて、この「わたし」というものの実体は、結局は自分のこときりしか考えられない、自分のことで精一杯で、人のこと、まして教会共同体のことなど考えることもできないような、自分だけが救われればいいと思っているような「わたし」であるという意味なのです。わたしが元気なときは、いくらでもそういう綺麗事をいうこともできるでしょう。しかし、いざ自分のいのちが取るか取られるかというとき、さあどうぞとはわたしたちはいえないのが本音です。結局はわたしが一番なのです。そのようなどうしようもない、度し難い、絶対に救われないわたしをどのようにすれば、真の救いへと導き、目覚めさせることができるのかというイエスさまの立場から見たわたしへのイエスさまの思い、それがイエスさまの魂の渇きなのです。だから、このわたしが愛されているというなら、最後のものが愛されていることになるのですから、当然全人類が愛されている、そのようなイエスさまのわたしへの渇きなのだということなのです。

このように考えると、わたしひとりというのは、全人類のひとり、社会の中に生きているひとりという意味ではありません。その他大勢の中のひとりではないのです。まさに、イエスさまの前に立っている、宇宙の中の絶対のひとりのわたしことなのです。わたしは、この広い宇宙の中で一人ぼっちなのです。それが、あのサマリア人の女だったのです。だからイエスさまは、その女性と会わなければならないと仰ったのです。このサマリア人は、この世界のすべてから見捨てられたものでした。わたしたちも、根本的に自分を見つめていくと大なり小なり一人ぼっちです。そのわたしにイエスさまは会わなければならないといわれ、わたしとの出会いに飢え渇いておられた、わたしを愛することに渇き、わたしの愛に渇いておられるのです。

こんなイエスさまの渇きに気づかされたなら、わたしたちはもう他のものは何もいらなくなります。なぜなら、その人は、自分の中にある内なる泉を見つけ、その泉はこんこんと永遠のいのちに至る水を湧き出でさせるからです。その泉がイエスさまなのです。その泉が、今わたしの中で湧き出でているのです。わたしが何かをしてもしなくても、その泉はわたしの中でただ湧き出でているのです。

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ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。