四旬節第5主日の福音と勧めのことば
2023年03月26日 - サイト管理者♰主の平和
一気に季節が進み、高野教会のお庭の桜も咲き始めました。心躍る春です。しかし、花冷えの日が続いています。どうぞ体調を崩したりなさらないよう、お気をつけてお過ごしください。
■今後のミサ予定
3月より全地区合同のミサに戻りました。ミサは日曜日10時半の1回だけです。
毎月、第2日曜日のミサはありませんが、4月9日は復活祭で第2日曜日ですが、復活祭のミサは行われます。また、4月7日聖金曜日は、午後3時より主の受難の典礼が行われます。聖木曜日の主の晩さんと復活徹夜祭の典礼は行われません。
■京都教区時報4月号が、教区のホームページに掲載されました。冊子の配布は次週になります。
https://kyoto.catholic.jp/jihou/545.pdf
■2023年度京都司教区オンライン聖書講座が5月11日から開講されます。申込受付が始まりました。多くの方が受講してくださいますように。
https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_a1aa1577120b4e00821c1637d06cef17.pdf
■車で教会にお越しの方は、駐車許可証をフロントガラスに置いてください。お持ちでない方には準備をします。
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■四旬節第5主日のミサ
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福音朗読 ヨハネによる福音(ヨハネ11章1~45節)
[そのとき、]ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。彼女が泣き、一 緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、イエスは心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日はラザロの蘇りといわれる箇所です。ここでは、人間、誰もが避けることができない生死の問題を取り上げています。
この世界の生物の中で、人間だけが宗教をもち、古今東西の宗教が等しく取り扱う根本的な問題は生死です。カトリック教会では永遠のいのちということで教えられ、それは死後始まる終わることのないいのちと考えられています。それは、死ななくなるような不老不死のいのちを想像しているのかもしれません。しかし、イエスさまが取り上げられたのは、死ななくなるいのちのことではなくて、人間の生死そのものを取り上げられたのです。
ラザロは病気で亡くなりましたが、イエスさまによって蘇生させられました。しかし、このラザロもその後亡くなっています。イエスさまは、ラザロを死なない体にされたのではありません。ですから、永遠のいのちは、生命体として歳を取ることも、病むことも、死ぬこともないいのちのことを指しているのではないことは明らかです。永遠のいのちを死後のいのちであると考えたり、もはや死ぬことも終わることもないいのちであると考えたりすることは、あまりにも人間的な発想だということなのです。それは天国のために宝を積みなさい的な神さまと駆け引きをする人間的な捉え方であって、救いをそのように考えること自体イエスさまの思いから離れています。
イエスさまを信じ永遠のいのちを得るということは、自分が死ななくなることでも、死んで天国で永遠のいのちがご褒美のように与えられることでもありません。宗教は人が死ななくなる、病気をしなくなる、老いなくなるものではありません。もし、そのようなことを説く宗教があれば、それは似非宗教だといえるでしょう。イエスさまは、わたしたちを生命体として死ななくされるわけではないのです。また、死後のいのちについて何かをいわれたのでもないのです。
コロナ禍の中で、15世紀の蓮如上人の疫癘(えきれい)の御文というのがよく取り上げられました。「当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これはさらに疫癘によりて初めて死すにはあらず。生まれはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみなひとおもえり。これまことに道理ぞかし云々」とあります。最近、疫病がはやって、疫病で人が死ぬといっているが、人が死ぬのは疫病で死ぬのではない。死ぬのは人が生まれたからであって、改めて驚くようなことではないといっています。それなのに、近頃は人が死ぬということを取沙汰しているのはおかしなことだといっているのです。
わたしたちも、自分が元気なときは、自分は決して死なないように思って生活しています。しかし、ひとたび癌であると宣告でもされたら、死んだらどうしようといって騒ぎ始めます。人間、死なない人は誰もいません。生まれたということは必ず死ぬということであり、死にたくないのであれば生まれなければいいのですが、生きている限りそれもできません。つまり、わたしたちは、この生死を一歩も出ることができないというのが、人間に定められた業なのです。
わたしたちは生と死というものの本来の姿を、さまざまな出来事に出会うときに強烈に見せつけられます。わたしたちは、平生は自分のいのちを自分で管理できるように思っています。けれどもそれは人間の願望であり、幻想にすぎません。実際は容赦ない過酷な現実が起こってくるわけで、それは何の祟りでも罰でもありません。人が生きるにあたって、当たり前のことが起こっているだけなのです。それがわたしたちのいのちのあるがままの姿なのです。
生まれてくるときも、死ぬときも、わたしの力を超えていて、自然にそうなるのです。生死だけではなく、わたしの人生の一瞬一瞬も自然のまま、ありのままであって、わたしの力でないものによって営まれているのではないでしょうか。わたしのいのちはわたしの手の外にあるのです。その当たり前のことが分からず、生死の中で右往左往しているのがこのわたしなのです。わたしのいのちはもっと大きないのちのはからいの中にあって、人生の万事はわたしの自由にはならないのです。
しかし、大きないのちのはからいの中でしか、物事は何ひとつ起こらないわけですから、そこには本来は大きな安心と自由と解放感があるはずです。わたしがどのような生き方をしようと、どういう死に方をしようと、すべて大きないのちのはからいの中にあるからです。つまり、わたしの生も死も、イエスさまのみ手の中にあるのです。そのことが「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことがない」といわれていることの意味です。
わたしはすべて大きないのちのみ手の中にあるのですから、自分でくよくよすることなど何もないのです。自分の責任だといって自分を責める必要もない。そうかといって自分の手柄だといってうぬぼれることもない。大きないのちにまかせると、虚栄心も卑下する心もなくなります。反省したり、うぬぼれたりする必要もないわけです。反省したり、うぬぼれたりしても構いませんが、そのようなことによってこの世界は少しも良くならないのです。
人間存在の根底は、人間の力を超えた力にあります。その力、働きによってわたしはわたしなのです。その大いなるいのちなしには、わたしは生きることも死ぬこともできない、その大きないのちに自分をまかせるしかできないことを知ること、それが真の信仰なのです。死んで天国に行くとか、死後の問題だけをまかせている、そしてこの地上のことは自分の力で何とかしようと思っているなら、ただの愚かものでしかありません。
「いだかれてありとも知らずおろかにもわれ反抗す大いなるみ手に」、教育者の九条武子の歌です。永遠のいのちとは、この大いなるいのちのわたしへのはからいと働きを知ること、そのものなのです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ17:17)」といわれているとおりです。死後のいのちとか、わたしの生き方でどうこうなるものではありません。
イエスさまの神の国とは、この大いなるいのちの働きのことなのです。それなのに、わたしたちはこの地上の人間の些末な考え方に囚われているのです。そのわたしたちにイエスさまはいわれるのです。「ほどいてやって、いかせなさい」と。つまり、人々を生死の囚われから解放しなさい。そして、大いなるいのちにまかせなさいといわれているのです。この真実を知ること、これこそがキリスト者の信仰、生き方であり、使命なのです。