受難の主日の福音と勧めのことば
2023年04月02日 - サイト管理者♰主の平和
高野教会のお庭の桜が満開です。桜の前のマリアさまも嬉しそうに見えます。
いよいよ聖週間に入ります。皆でよい復活祭を迎えられますように。
■洛北ブロック担当司祭としてお世話になりましたユン・サンホ神父様が、今春の人事異動で教区外へ転出されることになり、高野教会では今日が最後のミサ司式となりました。今までに神父様から頂いた多くの恵みに感謝し、これからの神父様の上に神の祝福が豊かにありますようお祈りください。
■今後の予定
7日(金)午後3時から聖金曜日・主の受難の典礼、9日(日)午前10時半から復活の主日・日中のミサが行われます。木曜日の主の晩餐、土曜日の復活徹夜祭の典礼はありません。
■今月からミサ中の歌唱が増え、新しい応唱になった部分もあります。まだ譜面をお持ちでない方は、聖堂後ろにコピーを用意してありますのでご活用ください。
■2023年度京都司教区オンライン聖書講座が5月から開講になります。11月までの全12回で受講料は4,000円です。
https://www.kyoto-catholic.net/_files/ugd/8117f0_a1aa1577120b4e00821c1637d06cef17.pdf
■四旬節の献金、トルコ大地震の募金など、引き続きよろしくお願いいたします。
■車で教会にお越しの方は、駐車許可証をフロントガラスに置いてください。お持ちでない方には準備をします。
■京都みんなで捧げるミサ
https://www.youtube.com/channel/UCcpBMMVYqIT3-LkUVGgNFsQ
■受難の主日のミサの配信はありません。
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受難の主日 入場の福音 マタイ21章1~11節
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
主の名によって来られる方に、
祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
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<勧めのことば> 洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日はイエスさまのエルサレム入城が記念されます。イエスさまがどうして、エルサレムへ行こうとされたのかを考えてみたいと思います。
イエスさまはガリラヤでの宣教活動に終止符を打って、エルサレムに向かわれました。エルサレムへの入城はイエスさまの凱旋のように描かれていますが、事実はそうではありません。イエスさまの旅は、挫折の連続でした。ガリラヤでの宣教活動がうまくいっていると思われた時期もありましたが、それは最初の頃だけです。人々は貧しさに喘ぎ、日々の生活は困窮を極めていました。その人々の苦しみを見て、イエスさまは人々に寄り添い、飢えた民衆にはパンを与え、病に苦しむ人々を積極的に癒していかれました。しかし、イエスさまの神の国の福音は人々に伝わるということはなかったのです。人々がイエスさまに求めたのは、その日一日の食べ物と病からの癒し、苦しみからの解放でした。苦しむ人々にどんなに崇高な神の愛を説いても、神の国の福音を告げ知らせても、そんなものは絵に描いた餅にしかすぎなかったのでしょう。では、どのようにすればこの人々が救われて安寧がもたらされるのでしょうか。イエスさまは人々に寄り添いながら、必死に考えられたのだと思います。それこそが、宇宙開闢以来の神さまの思いであったと思います。この人類の苦しみの歴史にイエスさまはずっと向き合ってこられたのです。
ユダヤ教の厳格な律法を守ることで救われる人は、それでいいかも知れません。難しい律法の解釈や研究のできる人はそれでいいでしょう。でも民衆のほとんどは、難しくて厳格な律法を守ることなどできない人たちでした。それでは、律法や掟を守ることができないこの人たちは、どのようにしたらいいのでしょうか。イエスさまは救いを求めて群がる人々に、自分の出来るすべてのことをしていかれたのだと思います。しかし、イエスさまが感じられたことは、やってもやっても決して終わることがない無力感であったのではないでしょうか。どこまでやっても、全人類がひとり残らず救われるには終わりがない、何もできないことをおそらく痛感されたのではないでしょうか。イエスさまご自身、自分が救い主として、人々を救う側にいて、人々を救っていくというご自身のあり方そのものが分からなくなられたののではないでしょうか。これこそ、イエスさまの最大の挫折だったのではないでしょうか。そこで、イエスさまが選ばれた道がエルサレムへ向かうということであったのではないかと思います。イエスさまは救い主として、自分が救う側ではなく、救い主としての身分を捨てて、救われなければならない人間の身にご自身を置かれたということではないでしょうか。イエスさまは救う側ではなく、救われない側に、救われ難きわたしたちと同じものとして、ご自身の身を置くという大きな決断、転換がなされた出来事、それがエルサレムに向かうこと、エルサレムへの入城ということだったのではないでしょうか。
今日の詠唱にあるように「キリストは人間の姿であらわれ、死にいたるまで、しかも十字架の死にいたるまで、自分を低くして、従うものとなった」、つまり、イエスさまはわたしたち人間となられ、わたしたち人間と同じになられたのです。人間として、病み、老い、苦しみ、死ぬものとなられたのです。しかも人間として、十字架の死という最低の死に方をすることで、すべてのわたしの人生と一致されました。イエスさまは決して、偉大な救い主として、わたしたちを救ってくださる方ではなく、わたしとなって生き、悩み、苦しみ、老い、病み、死なれた。わたしたちとともにこの世界の歴史が終わるそのときまで、わたしとなって歩み続けられるということ、これこそがイエスさまなのです。イエスさまの中で救いというものの意味が根底からひっくり返ったといってもいいかもしれません。栄光のキリストではなくて、十字架へと歩むキリストとなられたのです。こうして、イエスさまは、全人類がひとり残らず救われるそのときまで、わたしとともに歩み、苦しみ続け、決して休むことなく働き続ける愛の働きとなろうとされたのではないでしょうか。これが、イエスさまがエルサレムに向かおうとされたこと、エルサレム入城の意味であり、十字架に向かっていこうとされたイエスさまの思いではないでしょうか。このイエスさまの思いが永遠のものとなったこと、それがイエスさまの復活であるといえばいいのではないかと思います。このイエスさまの思いがわたしたちに知らされることこそが救いなのではないでしょうか。