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教会からのお知らせ

復活節第4主日 勧めのことば

2023年04月30日 - サイト管理者

福音朗読 ヨハネ10章1~10節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は「よき牧者の主日」といわれ、羊飼いと羊のたとえを使って、知るということの意味について語られます。知るということがどういうことかを考えてみたいと思います。

今日の社会の動きを見ていると、知るということを、単に情報を手に入れることだと捉えているように思われます。司祭仲間の話によると、チャットの機能を使えば、「復活節第4主日のカトリック教会の説教」と入力すると、その主日に相応しい説教が出てくるそうです。内容も、その主日の聖書の箇所やカトリック教会の教えを踏まえたものになっているそうです。そうすると、司祭の役割もなくなり、聖体だけを配ればいいのではないかなどという話になりました。AI(人工知能)ができることは、今日の箇所であれば、羊飼いが羊についてのあらゆる情報を知って、飼育するということになります。確かにAIは、羊の夫々の状況、健康状態などあらゆる情報を把握することはできるでしょう。そして、羊飼いとして羊に対する適切な対応をプログラムして、羊を管理していくことも可能なのでしょう。実際、人間の食品となる動植物でそのような人工栽培、飼育もおこなわれています。そうなると、人間の羊飼いなどいずれ必要なくなるのかもしれません。

今日の箇所で問題になっているのは、この“知る”ということです。羊飼いは羊を知り、羊も羊飼いを知っているというときの知るということは一体どういうことなのかということです。よくこの箇所を、司祭と信徒の関係にたとえる人がいますが、それは根本的に違うように思います。大体、自分は羊飼いで、信徒は羊だという発想自体、上から目線で嫌なものです。イエスさまがいわれたのは、そういう上から目線で、管理するような関わりではなく、イエスさまとわたしたちの真実の関わりです。イエスさまがわたしたちを知っているといわれたときの知るという意味は、わたしたち個体の情報を知っているという意味ではありません。イエスさまは、確かにわたしのすべてをご存じです。でも、わたしたちは情報ではありません。教会は毎年、教勢調査といって、教会の信徒の数、洗礼、初聖体、結婚、死亡数等を、ローマに報告しなければなりません。教会は、ダビデが人口調査をして、神さまから怒られて打たれたことを忘れているのではないでしょうか(歴代誌上21章)。イエスさまはわたしたちを100名の中のひとりとして、統計上のひとりとして知っておられるのではありません。イエスさまはわたしを、いのちとして知っておられるのです。いのちには温かみがあります。イエスさまの知り方は、このいのちの温かみがあるそのような知り方なのです。

親が子どもを知っているというときの知は、肌で触れ合ったその温かみのある知なのです。その知り方は、子どもについての情報ではなくて、子どもと同じいのちを生きているところからくる知り方です。イエスさまのわたしへの関わり方、イエスさまがわたしを知っておられるというときのそれも同じであるといえるでしょう。わたしがイエスさまを知っているということも、聖書をよく知っているとか、カトリック教会の教えを知っているとかということではないのです。イエスさまとわたしの知り方は、同じいのちが触れ合うような、そのような知り方なのだといえばいいでしょう。それをわたしたちは祈りといったり、イエスさまとの関わりといったり、イエスさまとの親しさというふうにいっています。単にミサに参加することとか、聖書を読むとか、決まった祈りをするということだけではありません。もちろん、それらが大切で助けになることは確かです。しかし、イエスさまとの関わりは生き生きとした、いのちの交流です。同じいのちを生きているので、相手が苦しんでいれば自分も苦しくなるし、相手が痛んでいれば自分も痛くなる。相手がうれしければ、自分もうれしくなる。隣人を愛することが掟であるから、イエスさまの命令であるから、相手を大切にしたリ、愛したり、助けたりするのではないのです。今の教会を見ていると、弱い立場の人、貧しい人々と連帯しなければいけないから、スローガンを掲げていろいろやっている、どうもポーズとしてやっているようにしか見えません。

海を見ることなく、海の中に入らなくても、海について語ることはできるでしょう。しかし、わたしが海の中に入ってこそ、海を語ることができるのではないでしょうか。海に入ることはリスクです。海がわたしを飲み込んでしまうかもしれません。しかし、海に一度も入ることなくして海について語るのであれば、それは唯の絵空事となってしまいます。ときどき、教会の教えはこのような絵空事になってしまってはいないでしょうか。だからといって、皆で海に頑張って入りましょうといわれても、できる人はいいでしょうが、できない人はどうしたらいいのでしょう。イエスさまは、皆で海に入りましょうというのではないのです。たとえわたしが飛び込んでいく勇気もなく、入っていく気力さえないほど弱っているとしても、わたしが頑張って入っていくのではなく、イエスさまという大きな海がわたしたちを包み込んでいる、イエスさまという大きな海の中に、大きないのちの中にわたしたちはすでに受け入れられているのだということなのです。わたしが何もしなくてもいいといっているのでありません。出発点はわたしではなく、イエスさまなのです。わたしたちは、皆自分中心ですから、自分をすべて起点としてものごとをやっていくことが好きなのです。実はこれが問題なのです。できる人はいいでしょうが、すべての人ができるわけではないし、そうすることが宗教ではないのです。多くの人はそのことにさえ気づきません。このように自分で何でもできるなら、宗教もイエスさまもいらないはずです。

真の宗教は、それこそわたしが入っていくのではなくて、イエスさまが入って来られるというか、わたしはすでにイエスさまの中にある、いのちの中に入れられているということに気づくということなのです。この視点の転換を回心(心を回す)というんです。人間がやろうとするのは心を改める改心であり、イエスさまがしてくださるのが心を回す回心です。わたしたちはそのことがわからないので、ときどきイエスさまはみことばとして、聖体として、わたしたちの中に入ってきて、そのことに気づかせようとしてくださいます。また人の温かみや優しさを通しても、わたしの人生の出来事を通して、気づかせようとしてくださっているのです。わたしが自分で知ることができるようなものは、すべて過ぎ去っていきます。たとえすべてが過ぎ去っても、決して過ぎ去らないイエスさまがわたしを知ってくださっていること、そのことに信頼することきりしか、わたしたちにはできないのではないでしょうか。そのことを信仰というのです。

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