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教会からのお知らせ

復活節第5主日 勧めのことば

2023年05月07日 - サイト管理者

福音朗読 ヨハネ14章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日、イエスさまはご自身を「わたしは道であり、真理であり、いのちである」といわれました。そのことを今日はじっくりと黙想してみたと思います。

そもそもいのちとは何でしょうか。わたしたちは当たり前のように問いますが、そのようにいわれると答えるのは難しいのではないでしょうか。わたしたちがいのちというものをもっとも意識させられるのは、自分に近いものの死や自分の死に直面したときでしょう。人類が誕生して以来、人間は死というものと直面してきました。そして人類は、わたしたちはなぜ生き死ぬのかという問題を解決できないままでいます。誰もが死にたくないという思いの中で、一番身近にいのちを感じているのではないでしょうか。死にたくないというのは、生への執着心ですが、その根底にあるのは生きたいというわたしたちの根源的な願いです。では、生きたいと願っているそのいのちとは何でしょうか。改めて問われると答えられません。いのちはあまりにも身近にあって、毎日それを生きていて、あえていうならば、限られた個体の中で、ある期間だけ起こっている現象であるといえるかもしれません。しかし、わたしたちが知っているいのちは、そのようなものでないことは何となくわかっています。

今日の福音の中で、イエスさまは「わたしはいのちである」といわれました。イエスさまは、ご自分が真のいのちであるといわれたのです。つまり、イエスさまこそが本当のいのちで、イエスさまが生きとし生けるものを生かしている根源的ないのちであるといわれたのです。大宇宙といってもいいかも知れません。そのいのちとは、もともと初めもなく終わりもない、無限のいのちであり、わたしたちが普通考えているいのちは、個体の枠に閉じ込められた有限のいのちということになります。いのちそのものは、人間の考え得るなかで最も大きな何かです。仏教ではそれを、空とか真如といっています。それは決して、人間のことばで説明できるものではないし、人間が把握できるものでもありません。それを何か言葉で表現したとき、表現した瞬間に、そのものではなくなってしまう何かです。わたしたち人間が知ることも、把握することもできないもの、しかし、生きとし生けるものを生かしている根源的ないのち、そのいのちが人間となってこの世界に来られたのがイエスさまです。イエスさまはひとりの人間、個体になられました。つまり、死にたくない、永遠に生きたいと願うものになられたということなのです。

そして、人間となられたということは、言葉、つまり名前のあるものとなられたということなのです。名前のあるものになられたということは、人間が具体的に「耳で聞いて、目で見て、匂いを嗅いで、味わって、手で触れて」感じることができるものとなられたということです。それがイエス、「わたしは救う」というお名前です。わたしたちは、この世界を言葉で認識しています。言葉で認識するということは、すべて名前があるということです。わたしたちは、名前がないものはその実体がわからないので、認識することはできません。ところが、わたしたちが自分のものと思って握りしめているこの“いのち”という名前のものは、わたしのものではありません。わたしのものであれば、わたしの思うようにできるはずです。しかし、このいのちはわたしの思うようになりません。わたしたちの力で長くも短くもできません。それなのに、わたしたちは自分のものだと握りしめて、それを何とか自分の思うようにしようとします。これが、人間がもっている自己中心性の根っこにあることなのです。だから、まことのいのちである方は、あえて、わたしたちと同じものとなることで、いのちのもっている本来の有様を、わたしたちとなってわたしたちに示されたのです。

わたしたちは、自分という有限な個体の中でしか、いのちを体験することはできません。いのちは個体になることによってはじめて、死にたくない、生きたいと願ういのちというものを、人間として意識することができるからです。しかし、そのいのちはわたしという個体の枠に留まっているかぎり、いのちは本来のいのちの姿ではないのです。わたしという形をとったいのちは、わたしという個体を超越していくとき、本来のいのちになるのです。そのことをイエスさまは、「野の花、空の鳥を見なさい」といわれました。野の花や空の鳥は、他からいのちをわけてもらい、また自分も他のいのちとなって、いのちを繋いでいきます。自分のいのちを超えていくという、いのちの本来のあり方を自然に当たり前に生きていきます。ただ、人間だけがわたしという個体に拘り続けます。そのもっともわかりやすいものが、死にたくないです。そのわたしたち人間にイエスさまは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分のいのちを愛するものはそれを失い、この世で自分のいのちを憎む人は、それを保って永遠のいのちに至る(12:24,25)」と教え、「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも決して死ぬことがない(11:25,26)」といわれました。イエスさまを信じるということは、自分というエゴイズムを出ることに他なりません。それが、生きるということであると教えられました。イエスさまを信じることで、天国に行けるとか、永遠のいのちを得られると思っているなら、それはイエスさまを信じていることにはなりません。それは、ただ自分のエゴイズムの中に沈んでいるだけなのです。

わたしたちが自分の個体に閉じ込められているいのちを、大きないのちのうちに解放することによってのみ、真のいのちに至ることができることをイエスさまは、わたしたちに示されました。大自然はそのようにいのちをありのまま、自然に生きています。イエスさまは、その大きないのちの本来の流れに、己を委ねよといわれているのです。いのちから、いのちへという大きな生命の還流こそがいのちのダイナミズムで、それがすべての生きとし生けるものの歩み、すなわち道であり、そのすがたこそが真実なのだということを、イエスさまはご自分の生涯、特に受肉、受難、死をもって端的に示されたのです。別のことばでいえば、あなたが生きるということは、死ぬということであると自覚しなさいということだと思います。他の生命体が生きていることを、人間だけが生きることができない。だから、死ぬこともできない。しかし、いのちというものを自覚できものは人間であるあなただけである。だから、あなたは本当のいのちを生きてほしい、それがイエスさまの願い、今生のわたしに向けられた大いなるいのちの願いでもあるのです。そして、その願いは、いのちを生きているわたしたちの中にある根源的な願いでもあるのです。すでに、わたしの中に、道、真理、いのちがある。わたしの中に答えがあるのです。

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