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教会からのお知らせ

聖霊降臨の主日 勧めのことば

2023年05月28日 - サイト管理者

聖霊降臨の主日 福音朗読 ヨハネ20章19~23節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

わたしたちは50日間にわたって、イエスさまの復活を記念してきました。そして、今日、イエスさまの復活の頂点でもある聖霊降臨を祝います。イエスさまの復活は、わたしたち生きとし生けるものを根底から生かしている大きないのちの本来の姿を、わたしたち人類に、イエス・キリストという出来事を通して示されることであったといえるでしょう。そして、そのいのちの本来の姿をわたしたちに気づかせ、そのいのちに生きるようにと願っておられるイエスさまの呼びかけであるともいえるでしょう。その大きないのちの本来の姿というものは、自らのいのちを他に与え、自らのいのちを失うことによって、そのいのちの本質を生きていくことです。それをイエスさまは、大自然のいのちの営みを通して教えられました。それが「野の花、空の鳥を見なさい」といわれたことです。野の花も、空の鳥も、この世界からいのちを受けて生かされ、またこの世界に自らのいのちを与えて生きています。つまり、死と再生という大きな生命の還流を生きていくことで、この大いなるいのちを生きています。空の鳥は、この地上の花や木の実、虫たちからいのちをもらい、そのいのちを次の世代に繋ぎ、あるいは天敵にいのちを奪われることで他のいのちとなっていきます。野の花も同じことでしょう。

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の中に、“蠍の火”という話が出てきます。ある日、蠍はいたちに追いかけられて井戸に落ちてしまいます。そして溺れそうになったとき、神さまに祈ります。「ああ、わたしはいままでいくつのもののいのちをとったかわからない、そしてそのわたしがこんどはいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにくれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうぞ神さま。わたしの心をごらんください。こんなにむなしくいのちをすてずどうかこの次はまことのみんなの幸いのためにわたしのからだをおつかいください」すると、蠍は自分の体が真っ赤な美しい火になって、夜空を照らしているのを見たという話です。何もこれ以上説明する必要がないほど明らかないのちの姿を描いています。これがいのちの本来の姿でしょう。このいのちの本来の姿をイエスさまは、ご自分の生涯、特に受肉、受難、死によってわたしたちに示されたのです。そして、蠍の火は夜空を照らす星となったように、そのようなイエスさまの生き様が復活としてあらわされているといえるでしょう。そして、今日祝う聖霊降臨は、このいのちの働きが、わたしたち生きとし生けるものを生かし、その働きがわたしたちのうちにすでに与えられていることを記念するのです。

わたしたちが生きているということは、わたしたちのうちにこのいのちの本来の働きが備わっているということを意味しています。今日の第2朗読の中で、聖霊はわたしたちを生かす働きであると述べられているのはそのことなのです。聖霊は、洗礼を受けた人にだけ働いているのではありません。聖霊はすべての生きとし生けるものを生かし、わたしたちを夫々の場における働きとして生かしています。そして、聖霊は、わたしをその場における他の人、他のものの必要のための賜物として生かしている働きであるということなのです。これこそが聖霊の賜物なのです。この賜物は、わたしたちが生かされている夫々の場において、家族、地域、国に留まらず、この世界の中で、この大自然の中の一員として、宇宙の中におけるわたしとしての場を与えられているのです。そこで、わたしたちは同じいのちを生きるものとして生かされているのです。夫々の役割や場は違っているというか、わたしたちはひとつとして同じものはありません。皆夫々違っていて、ユニークな存在であって、夫々の場があります。どの動物も植物も分類することはできるとしても、ひとつとして同じものはありません。それがいのちの豊かさなのです。そして、わたしたちは、そのいのちをお互いに分かち合いながら生きているのです。それなのに、人間だけがこの豊かないのちを独占しようとしてきました。人や国を支配し、人間以外のいのちにも名前をつけ、それを支配し搾取してきたのです。このいのちは人間だけのものではありません。そして、わたしが“わたしのいのち”といっているいのちも決してわたしのものではないのです。そのことがわからなくなっている、これが人間の罪ということなのです。

イエスさまの復活は、そのようなわたしたち人類にいのちの本来の姿を示すことでした。そして、聖霊降臨は、わたしたちがみな同じいのちによって生かされており、しかもそれぞれの文化、言語、背景、個性をもちながら、それでも同じいのちによって繋がっていることをあきらかにした出来事です。今日の聖霊降臨は、そのいのちの多様性と、わたしたちが同じいのちによって生かされていることを祝います。わたしだけ、特別ないのちをいただいたのではありません。わたしはわたしであって、他と入れ替えることはできません。しかし、そのわたしとわたし以外のものも生かしているいのちは同じいのちなのです。そのいのちに優劣、差別、区別はありません。人間だけが自分を特別視し、他と優劣をつけ区別して優位に立とうとします。愚かなことです。しかしながら、今生で、そのいのちの真実の姿を認識することができるのは人間だけなのです。ですから、わたしたちが心の目を開き、耳を傾ければ、わたしたちは生きとし生けるすべてのものから、いのちの真実を聞かせてもらうことができるのです。わたしたちはすべてのいのちあるものとともに、このいのちの真実に目覚め、このいのちを生きていくようにと呼びかけられているのです。だから、わたしだけが救われていくような教えは、イエスさまの教えではありません。わたしが善い人になって、ミサに参加して、自分の安寧、自分の救いだけを求めていくのであれば、わたしはイエスさまを信じているとはいえません。わたしひとりが救われていくということなど、あり得ないのです。そうではなくて、わたしひとりが救われることと、すべての生きとし生けるものが救われていくことがひとつとなるような教え、それがイエスさまの真実であり、そのイエスさまの真実に出会わせていただくことが、わたしが信仰を頂くということに他ならないのです。このことは、大抵は自分の考えや計画、予定が思い通りにならないという出来事を通して、その真実が示されます。自分のやりたいことや思いを通して、それを神さまが助けてくださった、お恵みだといって神に感謝というのであれば、それは単なる自己実現をしただけで終わってしまっており、イエスさまの業は何も実現されていないのです。わたしたちは、自己実現のためにイエスさまを利用しただけなのです。

日本では我流はいけないといわれますが、宗教も我流となりがちです。キリスト教とかカトリックという名はついていても、自分の考え思い、自分の信じたい教え、自分の解釈、自分の得た知識、自分のやりたいこと、自分の慈善活動やボランティア、自分のはからいを中心とした“我教”、自分教になりがちです。いずれも善意かもしれませんが、これはキリスト教ではありません。なぜなら、始まりはよかったとしても、結局は自分に向かっているからです。井戸に落ちるまで、我が身の身勝手さに気づかなかった蠍と同じです。わたしというものが絶えて、イエスさまが中心にならないのであれば、それはただの人間の業で終わってしまうのです。聖霊はそのようなわたしたちに、イエスさまの真実を教え、わたしたちを自己中心性から解放し、浄め、わたしたちをイエスさまの真実へと向かわせてくださるのです。今日、聖霊降臨の主日にあたって聖霊の照らしと導きを祈りましょう。

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