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教会からのお知らせ

キリストの聖体 勧めのことば

2023年06月11日 - サイト管理者

キリストの聖体 福音朗読 ヨハネ6章51~58節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

三位一体の主日の翌週である今日は、キリストの聖体をお祝いします。三位一体のお祝い日に、わたしたちを根底において生かしている大いなるいのちの働きについて黙想しました。わたしたちの信じている神さまというのは、遠いどこか、雲の上の天国におられる神さまではなく、わたしたち生きとし生けるものを根底において支え、わたしたちをそのいのちで生かしておられる方であることを味わいました。ですから、神さまといってもどこかに他所におられるということではなく、大きな神さまがわたしを包み込んでおられるというか、同時にわたしの内にも神さまがおられる。あたかも大海を泳いでいる魚のように、神さまの中にわたしがいる、そして神さまがわたしすべてを満たしているといえばいいのかもしれません。そして、絶え間なくわたしを支え、いのちを与えておられる。それも、ご自分のいのちを失うことによって、わたしたちを生かしておられるということを、イエスさまはご自分の生涯、特に受難、死、復活によって示してくださいました。

わたしたちのからだを構成する細胞は、一日に何億個もの細胞が死んで、新しい細胞に生まれかわります。わたしたち個体は古い細胞が死ななければ、わたしたちの生を保つことはできません。つまり、死があってはじめて生があるというのが、いのちの本来の姿なのです。ですから、わたしたちが生きるということは、いつも死と一緒に生きているのです。この地球自体も、過去からの無数の生きものたちの死体が積み重なって出来ており、わたしたちはお墓の上に生活しているようなものです。化石燃料にしてもそうで、わたしたちは死者によって生かされているのです。このように、わたしたちは他のいのちによって生かされているのです。ですから、わたしたちは決して自分ひとりで生きているのではありません。わたしたちはいのちを分け合っていくことによってしか、生きていくことはできないのです。はっきりいうと、この地上においては、すべての生きとし生けるものは自分以外の他のものからいのちをいただくことによってしか、そのいのちの営みを続けていくことはできないのです。

そのわたしたちが、いのちを保つための根本的な行為が食べるということです。食べなければ死んでしまいます。昔は、食べられなくなるとお迎えが近いといったものです。しかし、わたしたちが食べるということは、必ず他の生きものからいのちをわけてもらうことなのです。生き造りなんていいますが、結局は殺して食べています。この地球上でもっとも酷い殺生をしているのは人間です。人間はありとあらゆるものを食べています。牛や羊は草しか食べません。それなのに、わたしたちは牛肉をおいしいおいしいといって食べているわけです。多くの生きものの食べ物になっている植物は、人類が誕生する何十億年も前から、光合成というシステムを取り入れて進化し、現生命体の中ではもっともエコな持続可能な生態を造り出してきました。植物は、まさにSDGsそのものです。しかし、そのSDGsにもっとも反しているのが人間なのです。それに今頃になって気づいて、エコだとか、SDGsだなどというのは、他の生きものから見たら本当に恥ずかしいことなのではないでしょうか。

人間以外の生命体は、他の生命体から必要な分だけのいのちをわけてもらって生きています。弱肉強食という生態系を取っていますが、かといっていのちを無差別に無意味に狩るということはありません。しかし、知性をもった人類だけが、必要以上のいのちを狩り、搾取し、強奪し、乱獲するようになってしまいました。そして、その欲望はとどまるところを知りません。しばしば、その欲望は競争、暴力となり、それがわたしとわたしの親しい周りの人以外のすべてのいのちに向けられていくようになりました。それが人間に向けられていくとき、富の独占と搾取という形態を取り、貧困、飢餓問題になっていきます。また、自己の優位性を主張し、他者を隷属させるという形態を取っていくと、支配被支配の構造を作り上げ、権威権力を握り、パワハラから始まって、ありとあらゆる暴力、犯罪行為になっていきます。その究極が戦争という名を借りた殺人、植民地支配です。どうして知性をもっている人間だけが、このように酷いことができるのでしょうか。わたしはキリスト者ですから決してそういうことをしませんというかもしれません。しかし,大なり小なり、わたしたちはやっているわけです。むしろ、わたしの中にある自己中心性ということについて、わたしの思いが至らないということが、ありとあらゆる問題を引き起こしているのだということに気づく必要があると思います。わたしがよい人間だから、キリスト者だから殺さないのではないのです。それはたまたまであって、わたしという人間は、状況が変われば百人千人でも殺す身となるのです。親鸞が「わがこころのよくて、殺さぬにはあらず」といったのはそのことなのです。わたしは殺す身にもなり、また殺される身にもなるのです。わたしという人間のもつ不安定さ、何をしでかすかわからない不気味さに気がつかないでいること自体が、大きな問題なのではないでしょうか。支配被支配という上下関係を生きている限り、その問題がなくなることはありません。現代の社会はまさに、支配被支配の構造そのものであり、わたしたちはその中に組み込まれているのです。わたしは知らないとか、わたしは関係ないとは誰もいえないのです。

こうして、わたしたちは、イエスさまを2千年間食べ続けているのです。それなのに、わたしたちはまだ何もわからないのです。ここまで食べても、まだ食べ続けようとするのです。わたしは決して食べられる側にはまわろうとはしないで、食べつづける側にいつづけようとするのです。どうして、これをおかしいと思わないのでしょうか。イエスさまを食べ続けて、ミサに与って、それをお恵みだという、こんな愚かなことがあるでしょうか。わたしたちは、どうして、「イエスさま、どうぞわたしをお食べください」といえないのでしょうか。わたしたち人間の闇のなんと深いことでしょう。聖体の祝日とは一体何でしょうか。イエスさまがわたしたちのための食べ物、飲み物となってくださったことを記念して感謝します。もちろんそうでしょうし、ミサはお恵みでしょう。しかし、同時にわたしたちは平気でイエスさまを食べ続けている、この餓鬼のような、畜生のような愚かな己に思いを致すことを忘れてはならないのではないでしょうか。でなければ、ミサは感謝の祭儀でなくなってしまいます。ご聖体をいただいて当然、いただくことがお恵みであるという、自分勝手な思いから、わたしたちは永遠に出ることはできないのです。

今日、わたしたちは改めてわたしたちの愚かさ、闇の深さを思い起こしたいと思います。そして、それにもかかわらず、わたしたちのことを決して諦めることなく、わたしたちを養い続けようとされるイエスさまのこころをいただきたいと思います。そのイエスさまのこころは、わたしたちにいのちの本来の姿に生きてくれという願いそのものなのです。わたしたちはいのちを生きさせていただいているのですから、わたしが望みさえすれば、いのちの姿を何からでも聞き気づかせていただくことができるのです。「ほろほろと鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞ思う、母かとぞ思う(行基)」

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