年間第11主日 勧めのことば
2023年06月18日 - サイト管理者年間第11主日 福音朗読 マタイ9章36~10章8節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音はイエスさまが、12使徒を選ばれる箇所です。イエスさまは、人々が「飼い主のいない羊のように弱り果てて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれ」、12人の弟子を呼び寄せて「汚れた霊に対する権能をお授けになった」とあります。「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」とその理由が書かれています。イエスさまのすべての業の動機は、苦しむ人々へのあわれみから始まります。12人は、自分から志願してイエスさまの使徒になったわけではありません。ただイエスさまの使命を果たすため、イエスさまが呼ばれたのです。そして、イエスさまの使命を果たすために力を授けられた人たちでした。しかし、わたしたちは、数ある弟子の中から、選ばれるべき素質を供えているから12人が選ばれたのだ、選抜されたのだと考えがちです。
聖書の中で「選んだ」ということばが使われていますが、このことばが曲者です。わたしたちは選んだと聞くと、大勢の中からある人たちが特別に選ばれたのだと考えてしまいます。わたしたちは、選ぶということを聞くと、反射的に選ばれたものと選ばれなかったものがいると考えます。この世界は、物事を分け隔て、より分けることで成り立っているとわたしたちは考えているからなのです。男と女に分けたり、国籍を分けたり、大人と子どもとか、優秀な人と劣っている人を分けるなど、わたしたちは普通のこととしてそのようにしています。多い少ないということでも、何かに比べて多い少ないということであり、そこに何かが基準になっています。そうしたあらゆる区分、多い少ないなどを判断しているのは誰かというと、“わたし”なのです。“わたし”がすべての基準になっているのです。では、そのわたしとはいったい誰なのでしょうか。
わたしというものは、誰かがいることで成り立っている存在です。わたしたちは、先に親がいて子どもがいる、先に先生がいて生徒がいると考えるかもしれません。しかし、子どもなくしては親になれませんし、生徒なしには先生になることはできません。そして、その反対も同様です。世界の中でのわたしという存在は、相手がいて初めて成り立つものであるということが見えてきます。そして、その相手との関係性の中で、わたしの呼び名が変わってくるということもわかります。親子、先生生徒、夫妻、上司部下など、わたしたちは、相手との関係性や状況のなかで起こってくる自分の役割の名前がわたしであると思っています。そして、そのような名前に拘っていきます。そこからさまざまな状況のなかで、苦しみがおこってくるのです。親であれば、子どもが思うようにならないとか、子どもであれば、親がわかってくれないということでしょうか。でも親であること、子どもであることはわたしのすべてではありません。わたしは親だというときに、わたしは子どもに対してだけ親であって、親でない自分というものも当然あるはずです。
もっとわかりやすい例は老人とか病人とか、死人でしょう。わたしは病人ですというときに、わたしは健康な人に対して病人といっているのですが、それでは病気はわたしであるかというとそうではありません。例えばわたしの中のある部分が癌になって、わたしは苦しんでいる。その癌はわたしなのかというと、そうであるともいえるし、そうでもないともいえるでしょう。癌があればわたしは病人ですが、手術で癌を取ってしまえば、それは摘出された悪腫という細胞になります。もっと簡単にいえば、爪を切る前まで、爪はわたしでしたが、切ってしまえばゴミになる。その最大の現象が排泄です。数秒前までわたしであったものが、数秒後には汚物になるのです。そうなると、わたしというものは一体、どこまでがわたしで、どこからがわたしでないのかが分からなくなります。わたしたちは死ねば土に返り、他の生きものを生かす栄養になります。それを昔の人は、草葉の陰から見守るといいました。
わたしたち人間はこのような不安定な状態でいることに耐えられませんから、そのときたまたま自分が置かれている状況のなかで付けられた名前にしがみつきます。社長とか大臣とか、親とか先生とか、司祭であるとかなど、それもその場の名前でしかありません。それはたまたまその人がそういう状態であったからであって、その立場がその人ではないのです。聖書の中に出てくるファリサイ派のファイリサイということばは、「分けられたもの」という意味だそうです。ファイリサイ派の始まりは、神さまとの関わりの中で純粋に神さまを求めていこうとすることが、彼らのあり方でした。それがいつの間にか、わたしは他の人とは違うんだ特別な存在なんだ、わたしはより神さまに近いのだと錯覚し、それ以外の人たちを見下すようになっていきました。12使徒が選ばれたと聞くと、わたしたちは多くの弟子たちから選りすぐられて使徒になったのだと考えがちです。だから使徒はわたしたちより偉くて、わたしたちを指導する立場なんだと本人も考え、周りもそう考えがちです。しかし、そうではないのです。ただ、彼らはイエスさまとの関わりの中で、イエスさまの使命を果たすためにだけ使徒なのです。ですから、イエスさまなしの使徒はあり得ません。わたしたちにイエスさまの関わりを体感させてくれるもの、それが本来の使徒のあり方でしょう。使徒として選ばれたということは、イエスさまから愛されているということ以外の何ものでもありません。
その意味からいえば、わたしたちはすべてイエスさまの使徒、イエスさまに愛されたものです。そのようなイエスさまとわたしの関わりについて、誰からどうこういわれることではありません。使徒というのは、イエスさまの使命を果たすためにだけ使徒であって、人間同士の関わりにおいて、上下や優劣などの区別を生じさせるものではありません。しかし、そのことを12使徒もわからず、自分たちの中で誰が偉いのかを議論していました。このようにわたしたちは自分を他人と比べることでしか、自分を認識でないのです。そのことをイエスさまはわかっておられましたから、12使徒の中にイエスさまを裏切ることになるユダが入っていたのでしょう。わたしたちは必ず、自分は他の人より特別に選ばれたのだと自惚れ、選ばれなかったダメな奴だと落ち込むからです。ですから、このユダは、イエスさまを裏切ったあのユダではなく、わたしの中にいるユダのことを意味しているのです。
わたしたちは、たまたまこの地上に生まれて、たまたまこの時代にいのちを与えられて、夫々のいのちを生きています。その中で夫々の場があって、たまたまその名前がある立場にいるだけなのです。わたしたちが親から付けられた名前であってもそうです。たまたまであるということは、わたしの望んだこと、わたしが選んだことではなく、すべて与えられたものであるということなのです。そのことを忘れ、その名前にしがみつこうとするとき、わたしたちはユダである、イエスさまを裏切るものであるということなのです。ですから、このような不安定なわたしですから、イエスさまを裏切ることはある意味では当然、自然に起こりうるということでもあるのです。そのことを知らしめるために、ユダが12使徒の中に入っていたのでしょう。しかし、たとえわたしたちがユダであったとしても、それでもわたしたちは使徒であり、わたしたちはイエスさまから呼ばれたもの、愛されたものなのです。その真実は永遠に変わることがありません。
この地上のものはすべて過ぎ去っていきます。しかし、イエスさまとの関わりは決して過ぎ去ることがありません。このイエスさまとの絶対的な本来のあり方を見失い、わたしというものに拘り続けているわたしを目覚めさせていこうとする働き、それが使徒の本来の使命であるといえるでしょう。ですから、使徒というのは役職ではなく、わたしたちのうちにおける神の働きであるといえばいいかも知れません。わたしたちは改めて、使徒の捉え方が見直すように望まれているのではないでしょうか。