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教会からのお知らせ

年間第12主日 勧めのことば

2023年06月25日 - サイト管理者

年間第12主日 福音朗読 マタイ10章26~33節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音の中で「覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」とイエスさまは使徒たちにいわれました。少し不思議な箇所です。あなたがたが暗闇でいわれたことを、耳打ちされたことを、明るみでいい広めなさいというのであれば、その耳打ちされたことの内容が話されても不思議ではありません。しかし、その耳打ちされた事柄については何も述べることなく、明るみでいい、屋根の上でいい広めなさいということだけがいわれます。それも、恐れることなく、確信をもってそうしなさいといわれます。やっぱり、不思議な箇所です。イエスさまが使徒たちに暗闇でいわれ、耳打ちされたこととは何なのかと考えてしまいます。しかし、その中身が何であるのかは一切語られていません。

実は、多くの宗教での聖典がこのような形態を取っています。つまり、真の真理、真実は明らかになっているが、人間の知性や理性で理解し把握できるものではないので、その真実の壮大さについて述べるか、その真実をたとえで話すという手法が用いられます。宗教は、今までなかった新しい真理を発見して教えたり、また人としての生き方である道徳や戒律を教えたりするものであると思われがちですが、そうではないのです。むしろ、宗教は、すでに明らかになっている真実をわたしたちに解き明かし、それに気づかせる働きであるといえるでしょう。そのことをマタイは次のように語っています。「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。』(マタイ13:34~35)」その箇所から見ると、イエスさまが伝えようとされたことは、天地創造のときから隠されていた真実であり、それをイエスさまはたとえを用いて語られたということになります。つまり、ここでいわれていることは、イエスさまはすべてをたとえで話されたということなのです。聖書に書かれていることをそのまま受け取り、そのまま信じることが大切だと思われているようですが、イエスさまがおっしゃったのは、聖書で書かれている言葉を文字通りに読むことではなく、その言葉の奥にある真実、真のことばを聞くようにといわれているのです。わたしたちが文字の字義に囚われてしまうと、ことばの本当の字義から離れてしまうのです。イエスさまはどのようにパンを増やされたとか、どのように湖の上を歩かれたとか、イエスさまがどのように病人を癒されたとか、たとえで話された教えをそのままに捉え、それらの言葉自体に拘ってしまうとイエスさまの真実から離れてしまうということなのです。

ゲーテのことばに「真理は見出されてすでに久しい。気高い精神たちはこれによって結びついた。古き真理が真理をつかんでいる」ということばがあります。つまり、宗教というものは、改めて何か新しい真理を発見して、新しい教義が語られるのではないということなのです。真実は、わたしたちが発見し、気づく前からすでにわたしたちに明らかにされており、わたしたちを生かし包み込んでいるということなのでしょう。そのことを述べた詩編があります。「天は神の栄光を語り、大空はみ手の業を告げる。日は日にことばを語り継ぎ、夜は夜に知識を伝える。ことばでもなく話でもなく、その声は聞こえないが、その響きは地を覆い、その知らせは世界に及ぶ。神は天に太陽の幕屋をすえられた。太陽は花婿のように住まいを出て、勇士のようにその道を走る。その果てから姿を現しその果てまで巡りゆき、夜の住まいへの道をたどる(詩編19)」そこでは神が何であるかは語られません。神の栄光はことばでもなく、話でもなく、その声も聞こえることはなく、この宇宙万物がすでに神の栄光を語っているというのです。ピラトがイエスさまを尋問したとき「真理とは何か」と聞かれても、イエスさまはお答えになられませんでした。イエスさまが真理について話されるとき、真理とはこういうものであるとはお話にならず、すべてたとえで話されました。なぜでしょうか。真理は人間の言葉でも、人間の知性でも、人間の感覚でも捉えることはできない、色も形もないものだからです。もっとはっきりいうと、イエスさまご自身が人となった真理、真実だからです。ですから、イエスさまは「わたしが真理である」といわれ、イエスさまご自身が真理について説明する必要などないということなのです。

聖書の中では、イエスさまが具体的に何を話されたか、何を教えられたかということよりも、聖書の言葉を通して語っておられる真理そのものである神のことば、イエスさまに聞くこと、そのイエスさまと出会うことが大切なのです。大切なことは、「わたしは救う」というお名前のイエスさまと出会うことなのです。「わたしを救う」というお名前のイエスさまこそが、真実であるということなのです。その真の真実であって、人となられたのがイエス・キリストだということです。日本では古来、真実となった人間のことを、命(いのち)と書いて“みこと”と呼んできました。命(みこと)とは、まさに人間となった真のいのちです。ですから、イエスさまは“みこと”そのものであるといったらよいでしょう。みことは、命(いのち)と書きますし、また本当に尊いものという意味で、尊とも書き、真実の偽らないことばという意味で「御言」とも書かれます。そのことを伝えるために聖書があったり、教義があったりするのですが、伝える言葉はやはり人間の言葉を用います。しかし、その言葉を聞くのではなく、その言葉を通って響いてくるいかなる人間の言葉でないまことのことばを聞くということなのです。このことばが聞こえてくる、それを聞くことを信仰というのです。「お前を救う」といわれる真実が、わたしに届いている、つまりわたしたちがイエスさまを信じるということは、お前を救うといわれている真実を聞くことが即信仰になるのです。どんなに難しい教義を知っていても、どんなに難解な聖書釈義をしたところで、それは信仰ではないのです。それだけでは人間のはからいが多くなるだけで、惑いが深くなるだけです。教義や釈義は必要ですが、それはひとえにわたしたちを真のことばであるイエスさまとの出会いに導くため、「わたしはお前を救う」といわれる単純な真実とわたしが出会わせていただくためのものなのです。わたしの方からイエスさまに出会っていくのではありません。そうれならば、どこまでいってもわたしの都合です。そうではなく、わたしの方に来てくださるイエスさまがわたしの中で明らかになってくださること、それを真のことばを聞くということなのです。その呼びかけは、わたしたちが右往左折している日々の生活の中に響いています。

今の季節、庭の虫の鳴き声が聞こえてきます。虫の鳴き声を「声」として聞くのは日本人だけだといわれます。外国人には虫の声もただの雑音に聞こえてくるようです。水の音、海の波の轟、蛙の鳴き声、鳥の声、すべてはわたしたちに響いてくるイエスさまの呼びかけなのです。それは、わたしが苦しんでいるときも、どうにもならないと嘆いているときも、相変わらずに響いてきているのです。わたしたちも、日々の生活のただ中で、イエスさまの声を聞かせていただきたいものです。

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