年間第13主日 勧めのことば
2023年07月02日 - サイト管理者年間第13主日 福音朗読 マタイ10章37~42節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日はいのちというものをどのように捉えていくかという大きなテーマが取り上げられます。いのちというものは、どの宗教でも取り扱われる根本的な問題です。どの宗教でもいきつくところは、いのちとは何かということだと思います。人間は生きている限り、必ず死というものと直面しなければなりません。死には第三者の死と第二者の死、それに第一者の死があります。第三者の死というものは三人称の死で、わたしたちはそれをほぼ数字で知らされます。第二者の死というのは、二人称の死でわたしが名前を知っている家族や友人の死で、わたしたちは少なからず動揺させられます。しかし、第一者の死は、わたしの死ですから、わたしが体験することはありません。わたしが死んだとき、わたしの意識はないのですから、それが何であるかを説明することはできません。しかし、人間は説明できないこと、わからないことを非常に恐れます。そして、特に第二者の死からわたしたちは大きく影響を受けますから、死が大変なものであると想像してしまいます。しかし、それは想像の域を出ません。でも、どうも大変なことのようだという印象がありますから、それをなるべく遠ざけようとする、見ないようにする、それが迫ってきたときできるだけ先延ばしにしようとします。これは結局、いのちとは何かという問いに他なりません。現代の科学や社会を見ていると、いのちという根源的なものを問うことなく、現世の生命現象にばかりスポットを当て、出来るだけ死を回避することにエネルギーを裂いているように見えます。もちろんそれは大切なことなのですが、目に見える生命現象を解明して、コントロールするだけでは何も変わりません。古来、宗教は、わたしたちが生きるとはどういうことであり、どうしたら本当に生きることができるかを取り組んできました。
いのちについては、特にヨハネ福音書が取り上げています。イエスさまは「わたしは復活でありいのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きているものでわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことがない(11:25)」といわれました。神さまとは、イエスさまと何か。神さまとは、イエスさまとは、本当のいのちである、いのちそのものであるということがそこではっきりといわれています。ですから、本当のいのちを生きるということは、イエスさまを信じること、その大きないのちに自分をまかせることであるといわれています。本当のいのちとは、死後のいのちではなく、わたしたちが今生でこのいのちを生きること、信じるとはそのいのちをいただくこと、そしてそのいのちを生きて、大きないのちそのものの根源に帰っていくことであるといえると思います。これを永遠のいのちといっています。
今日の箇所で、自分のいのちを得ようとするならば、自分のエゴを捨てて、イエスさまの本当の大きないのちに自分もまかせて生きることであるといわれます。わたしたちが、わたしのいのちと思っている小さな身体的生命に執着するならば、かえってそのいのちを失ってしまうといわれています。わたしたちがイエスさまの大きないのちにまかせて生きるならば、死んでも死なないのだといわれます。それを、ヨハネでは「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きているものでわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことがない」といわれています。しかし、この地上の生命体である限り、わたしたちの身体的生命は必ず死を迎えます。この地上での生命尊重だけを説くのであれば、普通の現代人が考えている生命観に留まってしまいます。かといって過去の教会のように、この地上の人生は仮の宿と捉えて、天国にいくことを目的にしたような生命観も違います。この地上のいのちを説くにしても、天国でのいのちを説くにしても、いずれも自己中心としたいのちのあり方から一歩も出ていないからです。この地上で生きながらえたいのはどうしてでしょうか。わたしが死にたくない、わたしが生きたいからです。天国のいのちを望むのはどうしてでしょうか。わたしが救われたい、わたしが永遠のいのちを手に入れたいからです。この地上であるか来世であるかの違いだけで、いずれのいのちの捉え方も、自分のいのちをながらえたいという自己中心な願いから出たものであって、これでは本当のいのちを生きることはできません。生きたい生きたいと願っている個人のいのちを引き延ばすことは、信仰でも、宗教でもないのです。そうではなく、イエスさまこそがまことのいのちであり、いのちそのものであるということなのです。
そのまことのいのちは、イエスさまの生き様に現されています。そのいのちは、個体のうちにある生命現象を超えていくというところにあるのです。つまり、本当のいのちというものは、自己の中に留まらず、個体の外に溢れ出ていくところにその本質があるということです。いのちの本質は愛ですから、愛は自分のすべてを絶え間なく与えることにあります。ですから、まことのいのちそのものであるイエスさまは、自分のいのちを他者に与えるということにおいて、己を十字架に釘付けにするということにおいて、いのち本来の姿を生き抜かれます。ですから、イエスさまにおいては生きるとは、自分のいのちを失うこと、自分のいのちを捨てること、自分を超えていくことであるといえるでしょう。ですから、わたしの個体だけがいのちだと思っている限り、本当のいのちをわたしたちは知ることはできません。死んでしまったらお終いだという考え方も、死んで魂は天国にいくとい考え方も、いのちを物のように捉えています。いのちを自分の中だけに留まらないものにしていく、自分という枠を超越していくことによって初めて、本当のいのちに値するものになるのではないでしょうか。
実は、わたしたちはこのいのちというものを直接に知っているはずです。なぜなら、わたしたちはいのちを生きているからです。どこまでも生きたいと願うのはわたしですが、わたしは自分という小さな枠を出ていくことの大切さも知っています。もちろんイエスさまがそれをはっきりと教えてくださいましたが、そのことをわたしたちは生まれながらに知っています。とっさのとき、わたしたちは自分のいのちを守ろうとしますが、同時に自分のいのちを省みず他のいのちを守ろうともします。これが人間なのです。わたしたちのうちに、すでにいのちの根本的な願い、まことのいのちの働きが与えられているのです。そのいのちの働きに気づいていくこと、ここに信仰の本質があるのです。そして、この信仰はわたしたちが作り出したものではなく、このいのちの働きに中にすでに与えられているイエスさまの真実でもあるのです。