information

教会からのお知らせ

年間第14主日 勧めのことば

2023年07月09日 - サイト管理者

年間第14主日 福音朗読 マタイ11章25~30節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

「これらのことを知恵あるものには隠して、幼子のようなものにお示しになりました。そうです。これはみ心にかなうことでした」とイエスさまはいわれます。ルカでは「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれていわれた」となっています。この場面で、いかにイエスさまがお喜びであったかがわかります。それではイエスさまの喜びとは何でしょうか。それは、神さまの本当のお姿が知られることです。聖書の中では、イエスさまは、父と子という関係性で、神さまのお姿、本質を説明しようとされました。おそらく、イエスさま自身もユダヤ教の人々にも、神さまのまことのお姿を伝えるのに親というイメージが一番わかりやすかったのでしょう。このイメージは、後代には、三位一体という教えになっていきますが、イエスさまの意図は三位一体の教義を教えることではなく、まことの神さまのお姿を皆に伝えることにありました。イエスさまのお苦しみは、本当の神さまが知られていないこと、まことのお姿が知られていないことです。イエスさまは、まことの神のことば、人となったまことの神、愛の神さまです。ですから、神さまのお苦しみは、イエスさまのお苦しみでもあるのです。イエスさまは愛の神さまですから、それなのに本当のお姿が知られていないということは、どれほどのお苦しみだったでしょう。

それまで、人々は本当の神さまのお姿を知りませんでした。当時のユダヤ教の人々が知っていた神さまというものは、自分が与えた律法を守るものには祝福を、律法を破るものには罰をもって報いる勧善懲悪の神さまでした。これを旧約の世界では契約と呼んでいます。契約についてはいろいろと解釈がされており、本当は愛に基づく関わりであり、イエスさまによって新しい契約が交わされたのだと説明しています。普通に神さまの愛を知らせたところで、人間には理解できないので、方便として律法を与えて、契約を結んだのだという解釈です。この考え方は、とても分かりやすく、人間にとって納得がいくものだったと思います。人間は頭で考えてすべてを分け隔てていく存在ですから、物事を単純明快な原則で理解したいという根本的な願望があります。これこれをすれば、こうなる。これこれをしなかったので、こうなるという考え方です。もちろん、原因があって結果があるということは真理なのですが、それはわたしたちが考えるほど単純なものではありません。しかし、わたしたちは、たくさんお祈りしたら、たくさんお恵みをいただけるとか、悪いことをしたので、罰を受けるといった非常に分かりやすい、1+1=2のような単純な考え方、教えを好みます。これなら誰でも納得させることができるのだと思うのでしょう。しかし、現実の世界は、必ずしもわたしたちが考える勧善懲悪では動いていません。どうしてあんなにいい人がこんなに苦しむのかとか、どうしてあんなに悪い奴がのさばっているのか等々です。それをわたしたちは不条理だとか、想定外だといっているのです。わたしたちは、そうした現実を受け入れることができないし、納得もできないのです。だから、神さまは必ず勧善懲悪の神さまだと信じたいのです。しかし、これはわたしたち人間の単なる願望の投影に過ぎません。

そうなると人間はどうなるかというと、神さまによって認めてもらうために、駆け引き、数で取引をするようになります。たくさん善をおこなえば、神さまによく思われる。たくさん祈れば、天国に迎え入れてもらえる。罪を犯しても悔い改めれば、償えばゆるしてもらえる、というよう考え方です。一見すると説得力もあって、よい教育方針だと思われるかもしれません。事実、ほとんどの宗教がこのような教えに変貌していきます。平安時代、鎌倉時代に貴族や武士がこぞって、お寺を保護し、寄進したのは、自分たちの罪滅ぼしのためだったのです。ユダヤ教も、まさにそのような神さまと駆け引きをする状況だったわけです。そこにイエスさまが登場して、今までにないまったく新しい、ほんとうの神さまの姿を知らせたのです。

そして、イエスさまがユダヤ教の人々に神さまのまことの姿を知らせようとしたとき、その姿を親としてたとえられました。当時のユダヤ教の世界で、人々にとって最もわかりやすく、そして自分のことを無条件で守ってくれ、認めて、大切にして愛してくれ、自分のためであれば自分のいのちを投げ出すこともいとわない存在に一番近いものは親だったのでしょう。考えてみると、親は子どもを理屈で育ててはいません。赤ちゃんは笑っても泣いてもよしよしといわれ、お腹がすいて泣いても、うんちをしてもよしよしといわれて育てられます。これが大人であればそうはいきません。失敗をすれば叱られ、ミスをしたら注意されます。結果を出せば褒められ、役に立てば認められます。わたしたちは大人になるにつれて、いつの間にか、努力をしろ、結果をだせといった勧善懲悪の価値観を生きさせられているわけです。社会ではこれを教育と呼んでいます。何をしてもゆるされるのは赤ちゃんのときだけです。イエスさまは、神さまのまことのお姿というのは、この赤ちゃんに対する親のようなものだといわれたのでしょう。だからといって、神さまはわたしたちが何をしてもいいといわれたのではなく、わたしたちはひとり残らず、この神さまの大きなみ手のうちにあってよしとされているということなのです。人間はみんな違っています。いろいろな人がいます。それと同じように神さまの子どもたちもいろんな子どもたちがいます。人間的に見たらよい子も悪い子もいます。しかし、神さまはその子どもたちをひとりとして嫌わず、区別することなく、同じように、その子ひとりしかいないかのように慈しまれているということなのです。そのまことの神さまの愛に触れたとき、わたしたち人間の中に変化が起こります。但し、その変化が起こることが目的ではありません。どの子どもたちも同じように慈しまれていること、そこに何の分け隔ても、優劣も、差別もないということ、これが神さまのお姿、真実なのです。

ですから、大切なことは、イエスさまがまことの親としてたとえられた、その神さまの愛にわたしたちが触れることがすべてであるといったらよいでしょう。その愛に触れることによって、神さまのまことの姿がわかります。すべては、そこからしか始まりません。子どもたちの中のいさかいを調整しても、うまくいきません。駆け引き、計算することで育てられてきた人間が、共生できるはずがありません。結局は、すべての人がまことの愛、慈悲、慈しみに目覚めることなのです。しかし、そのすべての人といっている人は誰かといえば、結局は他の誰でもないこの“わたし”がその愛に、慈悲に触れ、目覚めさせていただくことなのです。皆一緒にというのは美しい理念ですが、うまくいきません。単なる理想やスローガンで終わってしまいます。このわたしが目覚めさせていただくことなしに、皆が目覚めていくということなどあり得ないのです。その逆も然りで、皆が目覚めることをないがしろにして、わたしの目覚めもないのです。だから、わたしが他の人に教えようとする前に、わたしが目覚めさせていただくことしかないのです。これは、パウロが「イエスはわたしのために死なれた」といったことであり、親鸞が「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり」といったことなのです。これはだれの問題でもなく、わたしの問題なのです。他の人に説教するようなことではないのです。ですから、わたしたちは説教で皆さんに話していますが、わたしは皆さんに話しているのではなく、実はわたしに話しているのです。今日も皆さんに説教しているのではなく、わたしに話しているのです。こうして、わたしは皆さんに話しならが、イエスさまに聞かせていただいているのです。

お知らせに戻る

ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。