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教会からのお知らせ

年間第15主日 勧めのことば

2023年07月16日 - サイト管理者

年間第15主日 福音朗読 マタイ13章1~9節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は種まきのたとえです。今日のたとえ話は何をたとえているのでしょうか。多くの人は、わたしはどのような土地かと考えるのではないでしょうか。イエスさまがされたこのたとえ話は、おそらくすべての土地に種がまかれているということのたとえであったと思われます。しかし、後代の教会は「種がまかれている」という事実ではなく、「種がまかれた土地」に関心が移っていったと思われます。そもそも、イエスさまがたとえで話される目的は何なのでしょうか。それはたとえでしか話すことができない、人知を超えた真実だからでしょう。しかし、今日の聖書の中ではすでに「天の国の秘密を悟ることがゆるされているもの」と「ゆるされていないもの」という区別が現れてきます。人間が境界線を作り出したとき、もう真実は本質からずれてしまっています。真実は人々を分け隔て、区別、差別しませんし、境界線を引きません。本来の宗教のあり方もそのはずです。なぜならば、それがイエスさまの願い、イエスさまの救いであり、それが神の国であるからです。

イエスさまは一部の選ばれた人々のためにだけ、話されたのでしょうか。イエスさまは一部の選ばれた人々のためにだけ、十字架にかかられたのでしょうか。いいえ、イエスさまは全人類の救い主です。全人類の救い主であるということは、文字通り「救われたもの」と「救われないもの」がないということです。神の国はすべての人のものであって、そこには善い人悪い人、大きいもの小さいもの、善い人生と悪い人生、幸せと不幸、救われたものと救われないもの、天国と地獄という区別がない世界です。しかし、わたしたちはこの世界をすべて区別して、境界線を引くことで理解できるのだと考えているのです。ですから、すでに種がまかれているという現実ではなく、どのような土地であるか境界線を引いて捉えようとしていきます。今日の箇所では、土地をよい土地と悪い土地に区別し、悪い土地をさらに道端の土地、石だらけの土地、茨の生えた土地というふうに区別していこうとします。この境界線を引いた内側にいることを内といい、境界線の外側にいることを外といい、内側にいる人を味方、仲間、同朋、身内、友人といい、外側にいる人を敵、嫌いな人、都合が悪い人というのです。その境界線は何処に引かれているのかというと、わたしの都合というわたしの物差しの上に引かれているのです。

この境界線の中にいることは心地よい守られた世界ですが、閉じられた世界であり、どこまでもわたしの都合の世界です。このような境界線を引くことを迷い、罪といいます。人間社会は必ず境界線を作り出していきます。そして、どの宗教も境界線を引き、救われた世界と救われない世界を作り出していきます。カトリック教会もそうです。そして、自分たちは救われた世界にいると主張して、救われていない世界にいる人たちを自分たちの世界に呼び込むこと、救われた世界の仲間に入るように勧めることが宣教であると勘違いしています。これほど愚かなことはありません。カトリック教会は何百年間もそうやってきましたし、今でも上層部の指導者の方々は本音ではそう思っているのではないでしょうか。しかし、こんな宗教は偽っぱちだとイエスさまはいわれたのです。だから、ときのユダヤ教の宗教的指導者たちによって十字架に送られてしまったのです。イエスさまがいわれたことは、すべての人に種がまかれているということでした。

イエスさまのたとえはすべて神の国のたとえですが、神の国とはそのような境界線をもたない世界、人間の作り出す境界が破壊された世界です。神の国が完成するとき、もはや教会はありません。神の国は、あたかも球体のようなものであるといえるかもしれません。球体には上下、左右、東西南北はありません。自分のいる場所から見れば、それらの区別があるように見えますが、球体そのものにはその区別はありません。人間が自分たちの都合で、北極、南極、経緯緯度を決めているだけなのです。いのちとしての地球は、本来そのようなものではないといえるでしょう。それがみんな自分を中心にして、上下、左右、東西南北を決めているだけであって、このわたしという起点がすべてなくなった状態を神の国というのです。神の国は、わたしがすべて、すべてがわたしとなった状態です。これを教会は神秘体験と呼んできました。

神秘体験とは何か不思議なことを体験するとか、お告げがあるというようなことではありません。わたしと世界はひとつであることを体験することなのです。よく考えたらわかるのですが、わたしは決してわたしだけで存在することはできません。わたしが存在するためには、両親が、またその両親が、もっと遡っていくと、それはこの地球、この世界、宇宙と繋がっていきます。そして、わたしの周りにあるもの、人や社会、空気や水など環境といわれるものすべて、もし何かがひとつでも欠けていればわたしという存在はないのです。種がやがて大きな木になるためにも、水、土地、太陽、空気、蒔く人などいろんな要素が必要になります。そしてその水があるためには、水素と酸素が必要で、夫々のためには、夫々すべてのものが必要になります。種はやがて大きな木となるすべての本質をそのうちに含んでいますが、それだけで、芽が出て木となることはできないのです。すべてのものが総動員して、そのいのちを生かしているのです。それはわたしたちも同じです。わたしというひとりを生かすために、この世界がすべて総動員して働いているのです。そして、そのわたしも他のいのちを生かすための働きとなっています。このように考えると、わたしという存在はすべてのいのちによって生かされており、いのちそのものと繋がっていることがわかります。わたしたちを生かしている根本的な大きないのちを、わたしたちは永遠のいのちとか、真理とか、神の国とか呼んでいるのです。わたしがどんな土地であるのかといった、そんなみみっちい話ではないのです。まして、自分の周りに境界線を作り出して、その内側に引きこもるような話ではないのです。そのような自分の世界に閉じこもること、これが地獄であるといったらいいでしょう。わたしたちは救い、解放を求めていながら、境界線を引いて自分の内に閉じこもるのであれば、わたしの救いという淵に中に沈んでいってしまうのです。

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