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教会からのお知らせ

年間第20主日 勧めのことば

2023年08月20日 - サイト管理者

年間第20主日 福音朗読 マタイ15章21~28節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、イエスさまがというより、初代教会が異邦人宣教をどのように捉えていたかということがわかる箇所です。この箇所は、すべての人の救いか、それとも一部の人の救いかという問いでもあります。ユダヤ教はユダヤ人だけの救いを説いてきました。それに対するアンチテーゼとして出てきたのがキリスト教です。しかし、キリスト教の中で、自分たちと意見が違う人々を異端として排除していくという動きが起こってしまいます。こうして、イエスさまによって始まった神の国の福音に垣根を作って、神の国を狭めていくことをやっていくようになります。それが、まさに今日の福音のなかで、イエスさまに「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」といわせてしまっていることなのです。この言葉は、イエスさまに由来するのではなく、マタイの教会の創作であるといわれています。初めに書かれたマルコ福音書にはこの言葉はありません。ここに、本来すべての人の救いを説く宗教が、特定の人のための宗教になっていくプロセスを見るような気がします。これが、キリスト教のユダヤ教への先祖返りという問題なのです。どの宗教においても、このような問題が起こってきます。そして、どの宗教においても源泉へ立ち帰る改革がおこなわれてきました。そのような動きは、ときとしては分裂を引き起こしてしまうこともありますが、これが人間としての宗教の限界なのでしょう。

わたしたちが救いというものを考えるとき、先ずはわたしが救われて楽になること、わたしの意が満たされて幸福になることとしてしか捉えることができません。今日の福音でいえば、カナンの女は、どのようにしても救われることがないわたしたち人類の代表です。そして、この女性はイエスさまとの出会いを通して救われていきます。しかし、同時に「この女を追っ払ってください」という弟子たちの姿も、自分たちは救われた側にいると思い込んで、そこに安住しているわたしたちの代表でもあるのです。つまり、救われたいと思っているわたしたちの救いが、果たして何を意味しているのかだれにもわからないということなのです。ここで、カナンの女も弟子たちにも何が問われていたのでしょうか。それは今、救いを必要としているのは、他の誰でもないわたしであるということに気づかされるということではないでしょうか。つまり、救われるのは今であって、わたしの状態に一切関係なく、今のわたしを救いへと招いておられ、救われるわたしは今のわたししかない、そしてどうしても自力では救われないわたしがいるということに気づかされるということだといえるでしょう。

このことは、わたしがわたしというものから解放されるということでもあるのです。わたしは救われたから、あなたも救ってあげましょうというようなものではないのです。そういうふうに考えているあなたこそ、救われなければならないんですよということなのです。自分の救いや自分の幸福を第一に考えていた人たちの中から、本当に苦しんでいる人たちの救いを望むような心が生まれてくるはずがありません。大体、多くの宗教が人を救うとか助けることを教えます。しかし、人を救う、助けるという発想は、自分は救われていて、自分が人を助ける立場になりたいという我欲からでています。人を助けるということは、結局は自分を満たしたいという我欲であって、これは一種の名誉欲でしかありません。人を助ける立場に立つということは、今日の弟子たちの立場と同じです。自分が救われた立場に、上に立って、そこに安住して、人を救おうとします。これはイエスさまの心ではなく、どこまでいっても救われた人と救われていない人の壁を立てていくことに他なりません。自分は信仰があるという顔をして、話をしたり、活動したりしている、そしてそこに上下関係をつくっていきます。本当の宣教は、自分を救われた立場に置くことではなく、自分を救われない立場に置くこと、他の人々の救いを優先すること、自分が最後のものになるということなのです。宣教するということは、自分は救われないものになるということなのです。

多くの宗教は同じ信念、教義を共有して満足して、そこに安住していきます。これはどこまでいっても閉じられた世界、自己満足の世界に過ぎません。これが本当の救いといえるでしょうか。人を助けることで、自分も救われていく、これは単なる自己満足です。わたしたちは、結局は自分が安心して満たされたいというところから自由ではありません。これが現実の世界か、来世かの違いだけで、自分を最優先していることに変わりはなく、これではどれだけ学んでも、どれだけ祈っても、単なる我欲に過ぎません。自分ひとりが救われて、そこに沈んでいく世界です。そんな救いはイエスさまの救いではありません。ですから、本当の救いは、わたしの救いからわたしが解放されることなのです。しかし、わたしの救いから解放されるということなど、わたしの力ではあり得ないことなのです。だから、救われるのは、今のわたしの問題なのだということに気づかされることが、これが大切なことであることがわかります。

今日の福音の箇所は、初代教会の回心の箇所であるともいわれています。イエスさまに「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」といわせていますが、実はそのように考えていたのはイエスさまではなく、初代教会だったのでしょう。イエスさまが活動しておられたときには、ユダヤ人異邦人、老若男女、身分貴賤の別なく、すべての人の救いのために働かれました。しかし、イエスさまが亡くなり、教会が福音宣教に出ていくときに、自分たちだけの救いに閉じこもる誘惑にさらされたのでしょう。自分たちだけイエスさまによって救われて、そこに安住するという傾きが頭をもたげてきたのではないでしょうか。救われたものと救われていないものを区別し、グループを作っていくことです。しかし、イエスさまはご自分を救われたものの立場に身を置かれたことはありませんでした。イエスさまの生涯、特に十字架はユダヤ人には決して課されることがない、もっとも不名誉な呪われたものの死でした。つまり、イエスさまはもっとも救われ難いものとしてその身を置き、異邦人として、呪われたもの、罪と悪に染まって、救いから除外されたものとして死んでいかれたのです。そのことに、初代教会は異邦人の宣教という局面において、わが身のあり方をイエスさまから問われ、ああ~イエスさまはそうではなかったのだ、ということに気づかされ回心していった出来事、それが今日の箇所なのです。イエスさまの道は、自分をもっとも救われ難い身に我が身を置き、人々とともに地獄に堕ちていくことによって、人類を救っていく道なのです。だから、自分は救われて、天国にいって幸せになりたいなんて思っているわたしが解放されていくことこそが、本当の意味でのわたしの救いなのです。今日、わたしたちもイエスさまのそのお心に触れさせていただく恵みを願いましょう。

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