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教会からのお知らせ

年間第21主日 勧めのことば

2023年08月27日 - サイト管理者

年間第21主日 福音朗読 マタイ16章13~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、イエスさまがフィリポ・カイサリア地方にいらっしゃったときの出来事です。17節以下の部分は、他の共観福音書に並行箇所はなく、マタイによる加筆であると考えられています。カトリック教会はこれをもって教皇の首位権、ゆるしの秘跡の根拠としていますが、そのことについて今日は触れません。今日の福音は、イエスさまとは誰かという大きなテーマになっています。弟子たちは、もう何年間もイエスさまとともにいました。それなのに、イエスさまは誰かとあらためて問うということはどういうことでしょうか。ともにいたのであれば、イエスさまとすでに出会っており、誰であるかわかっていたはずです。確かに弟子たちはイエスさまと一緒にいましたが、しかし本当にイエスさまと出会っていたのかということが問われているように思います。マタイ福音書の大きなテーマは、「わたしたちとともにおられる神」インマヌエルであり、イエスさまがわたしたちとともにおられるということが一貫して示されていきます。それでは、イエスさまはわたしたちとともにおられるのかもしれませんが、果たして、わたしたちはイエスさまと出会っているのかということが問われているということになります。

今、イエスさまはすでにわたしたちとともにおられます。イエスさまがわたしとともにおられないということはありえません。どんなときにもともにおられます。「世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる(マタイ28:20)」、これがイエスさまのお約束だからです。それでは、イエスさまが一緒におられるのであれば、わたしたちはイエスさまと出会っているかというと、一概にそうとはいえません。わたしたちがイエスさまと出会うということは、わたしたちがともにおられるイエスさまに気づかされるということなのです。イエスさまがわたしとともにおられるからといって、わたしがイエスさまと出会っているかどうかは別問題です。イエスさまと出会ことは、イエスさまと全人格的に出会うということ、真実のイエスさまの働きに気づくこと、本当の意味でわたしとともにおられるイエスさまに気づくということだといえます。そして、それがわたしたちの回心でもあるのです。

今日の福音の中で、イエスさまは弟子たちに「人々はわたしのことを何といっているか」と問われました。これは、イエスさまについての情報を聞かれたということでしょう。それで弟子たちは、洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、他の預言者だとか答えます。そのような弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」と問われます。それは、イエスさまが誰であるかを問うておられますが、実は「あなたがたはこのわたしと、真実のわたしと出会っているか」と問われたのです。弟子たちは、イエスさまの一定期間一緒にいましたから、それなりにイエスさまのことをわかっていたはずです。それでは、わたしたちはある時間を、また同じ空間を共有していれば、その人のことがわかるかといえば、必ずしもそうではありません。どんなに長く一緒にいても、心が通い合わないことがあることを、わたしたちは人間関係の中で嫌というほど体験しています。いわゆる、出会っているように見えても、本当は出会っていない、わかっているようで、何もわかっていないことがあるということなのです。また、そもそも、一緒にいるということさえも気づいていないということもありえます。

法然上人の歌に「月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ」というのがあります。わたしたちは、イエスさまを自分の外に外に探し求めようとします。確かにイエスさまは、聖体の秘跡の中に、教会の聖櫃のうちに、教会の集まりの中におられます。いわゆる、イエスさまはわたしの外におられるのだと思い、探し求めます。しかし、同時にというか、イエスさまはもっと本来的なあり方で、わたしたちの心のうちにおられるのですよということではないでしょうか。月を外に眺めると、その月の光がすべての人のうちに注がれていることは一般論としてはわかるのです。しかし、それが自分のこととなると意外に気がつかなかったり、わからなかったりするものなのです。わたしたちがどんなに自分のことをつまらない人間だと思っても、自分がどんなに罪深くどす黒い心を抱えていたとしても、実は、イエスさまはそのわたしを煌々(こうこう)と照らし、心の隅々まで照らす光として、わたしの心のうちにおられるということです。ですから、他所にイエスさまを探しに行く必要などないのです。ただ、愛と憎しみに翻弄されているわたしたちは、よもやわたしのことなどイエスさまは思っておられるはずがないという妄想が、わたしたちとイエスさまとの出会いを妨げてしまっているのではないでしょうか。ですから、どんなにイエスさまが近くにおられても、わたしたちの眼がさえぎられてしまっていて、イエスさまを見えなくさせてしまっているのではないでしょうか。

わたしたちは自分の心を浄め整えて、イエスさまを探し求め、見ようとし、近づこうと思っていますが、実は、イエスさまはわたしが求める遥かに先立って、わたしを探し、見いだし、わたしを救い取っておられ、そのわたしを決して捨てないと仰っているのです。イエスさまはわたしが探す先に、わたしを探しだして見つけ出し、わたしが見ようとしている先に、わたしを見つめて見守り、わたしが救いを求めようとする先に、わたしを救い取っておられることに、わたしたちは気づかされるのです。ですから、わたしたちはイエスさまがどこにおられるのか、どのようにすれば救われるのか、自分の至らなさを悲しむ必要などないのです。そのような要らぬ算段をするのではなくて、わたしたちはすでにイエスさまによって見いだされ、救われていることを喜ぶのです。このような真実のイエスさまに出会うことを回心というのです。こうして、真実のイエスさまがわたしに知らされてくるのです。但し、どんなにイエスさまのことを聞いてありがたいと思って感動しても、しばらくすればすっかり冷めてしまって、何の感動も起こらないわたしに逆戻りしてしまいます。しかし、わたしがイエスさまのことを忘れてしまったとしても、イエスさまは決してわたしのことをお忘れになることはありません。

それなら、わたしたちはイエスさまのことを忘れないようにしっかりと心を固めて、イエスさまに従おうとするのが、普通にわたしたちが考えることでしょう。しかし、そのようなわたしですが、イエスさまに出会いながらも、現実には、なおも愛と憎しみ、疑いと不信の業火に振り回され、相変わらずイエスさまから逃げ続けているわたしがいるのです。このように逃げ続けるわたしたちを、それでも探し求めて、「わたしはあなたとともにいる」と呼び続けてくださるイエスさまであるということなのです。このようなイエスさまから、わたしたちは見守られ、救い取られているのです。この真実のイエスさまと出会うことが、「あなたはメシア。生ける神の子です」とイエスさまに申し上げることなのです。イエスさまはわたしたちの意見を聞いておられるのではありません。イエスさまから逃げ続け、背き続け、自分に都合のいいイエスさまだけを探し求めようとしているわたしたちに、それでも「わたしはあなたとともにいる」と呼び続けてくださっていることに気づいてくれ、目覚めてくれと呼びかけておられるのです。ですからその信仰告白はペトロをしていわせたものではなく、どのようであっても救ってくださるイエスさまのお働きが言葉として生まれ出てきたものなのです。それを「このことをあなたに現わしたのは人間ではない」と述べられ、神さまの働きであることが示されていくのです。わたしたちはこのような真実のイエスさまと出会うように呼ばれているのです。

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