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教会からのお知らせ

年間第22主日 勧めのことば

2023年09月03日 - サイト管理者

年間第22主日 福音朗読 マタイ16章21~27節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまの受難予告とそれに反応する弟子たちの姿が描かれていきます。イエスさまは、自分はエルサレムで、殺されることになっているといわれました。イエスさまが仰ったことは、普通の感覚であればば、誰もがイエスさまをお諫めすることでしょう。どうぞ、いってらっしゃいとは誰もいわないでしょう。それなのに、かえってペトロは厳しく怒られてしまいます。「サタン引き下がれ」と。ペトロは、何のことかわからなかったことでしょう。しかし、ここで問題になっていることは、わたしたちのいのちをどのように考えていくかという問題なのです。

弟子たちは、イエスさまがエルサレムに行かれるのは、ユダヤ人の新しい王として全権を掌握して、イスラエルからローマを駆逐するためだと妄想していました。そもそも王というものは、名誉欲と所有欲と支配欲を一手に納めている存在です。それこそ当時のユダヤ人の憧れの的であり、弟子たちはそのような方の傍らで自分たちの野心をかなえたいというのは本音だったわけです。多くの人たちは、そこまでいかなくても、自分の思いが満たされることが人間としての幸せであり、いのちのもっとも輝く姿だと考えています。そして、それがこの地上で極まった姿が王であるわけです。それが「全世界を手に入れても」といわれることです。しかし、イエスさまはそのようないのちにあり方に問題提起していかれます。

イエスさまは、本当に自分のいのちを救いたいと思うのであれば、わたしたちがいのちと思っている有限ないのちに執着することをやめなければならない、そのいのちを失わなければならないといわれるのです。本当のいのち、神のいのち、永遠のいのちはイエスさまがご自身であって、わたしたちの個々のいのちは、そういう大きないのちがあってはじめて可能になるものであって、個々のいのちを長らえさせるとか、恒久的なものにすることではないということです。いのちとは、本来、無限、永遠であって、わたしたちがいのちだと思っている個々の有限のいのちは、本当のいのちがわたしという個の枠の中に、一定期間、留まっているものにすぎないということなのです。ですから、わたしたちのいのちと別に、永遠のいのちとか神のいのちというものがあるのではないということです。わたしたちが生きているいのちが、神のいのちであり、永遠のいのちなのです。しかし、わたしたちが生きていくということは、ご飯を食べたり、働いたりして過ごす一生のことで、死ねば、お墓に入ってしまうものと考えてしまいます。わたしたちのいのちはもちろん尊いですが、わたしたちが一番大事だと思っている個のいのちを生かしている根本的な大きないのちがあることを知らせるということが宗教の本来の役割だといったらいいでしょう。ですから、宗教は、生きたい生きたいと願っているわたしの個のいのちを引き延ばすことではありません。本来のいのちに目覚めさせること、これが宗教の役割です。個人の野心や欲望につながっているようないのちを拡大させることではないのです。そのような個のいのちを超えていくことを教えるのが宗教であるといえるでしょう。

そして、そのいのちはいのちそのものの中に、自分を超えていくという性質をもっています。多くの植物や動物は、自分を犠牲にして、いのちを次の世代に受け渡しています。そして、自分の使命が終われば、自分のいのちを大きないのちの中に解放していきます。それがもっとも苦手というか、難しい生命体が人類なのです。物質であれば、その物質は個体の中に留まり続けます。おそらく、人間はいのちを物質のように理解しているのではないでしょうか。だから、いのちという現象を恒久的な形態の中に閉じ込めようとしてきました。それが不老不死を願ったり、間違った永遠のいのちを求めたりすることと繋がってきました。しかし、いのちという現象は、動きであり、生きよう生きようとして、今のいのち以上になっていこうとします。たとえば、すべてのいのちに成長という現象があります。そして、その成長がある限界点に達したとき、いのちは自らを壊して、他のいのちに変容していこうとします。動物の脱皮もそうですし、芋虫がさなぎになって、蝶に変態していくのもそうです。そのもっとも根本的なものが、個の死を通して、次世代にいのちを受け渡そうとすることです。つまり、いのちそのものの中に、自らが個体を壊して、個体の外へ溢れ出ていくという特質があるのです。この自己超越こそ、いのちのもっとも独特な固有の特徴です。それをイエスさまは「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのためにいのちを失うものは、それを得る」と的確にいわれました。また別の箇所では、「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:13)」、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちをささげるために来た(マルコ10:45、マタイ20:28)」といわれました。しかし、人間は、他の動植物が自然なこととして成し得ていることができません。わたしの個のいのちだけがいのちだと思って、それに執着しているからです。それだけなら、わたしは本当のいのちを知らないし、生きてもいないということになります。

ただ、このいのちというものを認識できるのは、おそらく人間だけです。人間だけがわたしという輪郭を意識するがゆえに、わたしの中に閉じ込められた、あるいは生きているいのちというものを認識することができるのです。動植物は、わたしという輪郭をはっきりもっていません。しかし、人間であれば、どんなに個性が強くない人でもわたしという輪郭はもっていて、わたしのいのちが終わることを自覚して、死を恐れます。このわたしという輪郭を意識し、その死を恐れるということにおいて、わたしたち人間はいのちを認識しているのです。こうして、わたしたちはいのちというものを直接に知っているわけです。常日頃は、当たり前のようにして生きているので、いのちというものを意識しません。海の魚が海を意識していないのと同じです。しかし、わたしのいのちというものを意識するとき、そのわたしという個のいのちがなくなったら大変だと、死なないようにあれこれ頑張ろうとします。それは、わたしの個のいのちがすべてだと思っているからです。しかし、これだけなら、わたしたちはいのちの半分しか知らないことになります。

いのちが本当のいのちになるためには、個となったいのちのあり方が破られる必要があるのです。それが、本来のいのちのあり方です。人間以外のいのちは、自然にそのようなものとしていのちを生きています。わたしの中で意識しているいのちは、蝶の世界を知らない芋虫のようなものだといえばいいかもしれません。芋虫は、自分の生きているいのちがすべてだと思っています。空に高く舞い上がるようないのちが、自分の中にあることを想像することができません。しかし、芋虫はときが来れば、自らが自分の内に入ってさなぎを作り、自分に死んで、そして蝶となって空高く舞い上がります。わたしたちは、わたしのいのちの殻を破って脱出していくこと、わたしのものと思って自分の中で握りしめているいのちを、大きないのちのうちに解放するところにいのち本来の動きがあるのです。そのことをイエスさまは、「わたしについて来たいものは、自分を捨てて…」といわれました。それがいのちの本来のあり様であり、大きないのちを生きるために、個といういのちを突破しなければならないのです。イエスさまはご自分の生き方、死に方で、わたしたち人類に本来のいのちのあり様を単的に示されました。信仰というのは、キリスト教の信者になることではありません。自分という殻の外に出て、大きないのちの中に自分を解放することなのです。そのとき、わたしたちははじめて、生きたといえるのだと思います。わたしたちは、芋虫のようにそのあり様を本来知っているはずです。しかし、利己によってそれが見えなくなってしまっているのでしょう。そのあり様をわたしたちに知らせ、目覚めさせるのがイエスさまなのです。そのあり様は、わたしたちの中にすでに与えられており、その動きに自らを与え、解放していくようにさせる働き、これこそがイエスさまの働き、聖霊の働きです。そして、このことが信仰と呼ばれるものなのです。

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