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教会からのお知らせ

年間第23主日 勧めのことば

2023年09月10日 - サイト管理者

年間第23主日 福音朗読 マタイ18章15~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音は、マタイが教会をどのように考えたかということがテーマになっています。冒頭の15節だけが、ルカに並行箇所を見ることができますが、それ以外は共観福音書の中に並行箇所は一切ありません。そのことから、この箇所は、明らかにマタイの教会が置かれていた状況が前提になっていると思われます。マタイ福音書は、紀元70年のエルサレム滅亡後に書かれています。その後、ユダヤ教はファイリサイ派が中心になっていき、律法は厳格化され、多元主義を排除していきます。そこで、当然、ナザレのイエスをメシアと信奉するグループは排除されていきました。そもそも四福音書の中で、教会という言葉が使われているのはマタイだけです。イエスさまが、いのちをかけて宣べ伝えようとされたのは神の国であって、教会を創立するという意図があったとは考えられていません。イエスさまの死後、イエスさまをメシアとして信じるユダヤ教の一派が、ユダヤ教から独立して、自分たちのアイデンティティを“教会”という言葉で呼んだということなのです。そのような状況のなかで、神の国とまったく異なった概念である教会という言葉が使われるようになったということなのです。しかし、教会は神の国ではありません。神の国はわたしたちの救いの現実であるとすれば、教会は神の国を求めるわたしたち人間の集まり、グループです。ですから、教会の中に神の国の働きがあるとはいえますが、教会と神の国を同一視することはできません。

このグループはユダヤ教へのノスタルジーを感じながらも、異邦人世界へ宣教へと出ていこうとしている共同体です。グループの主要メンバーは国外居住のユダヤ人でしたが、ナザレのイエスをメシアとして信奉しながらも、自分たちの先祖から受け継いできたモーセの律法に対して不要論を説く人と律法遵守派とに分かれていました。マタイの教会ではグループ間の争いが前提にあったと思われます。そのようなことが問題となるのは、おそらくどの宗教においても避けて通ることができないものなのでしょう。しかし、そもそも、そのような問題がでてくる最大の原因は、イエスさまとの出会いの体験から離れてしまっている、また体験の不在ということがあるように思われます。今日はそのことをお話ししたいと思います。

イエスさまが宣べ伝えられた神の国の福音は、全人類のためのものでした。ですから、ユダヤ人が先祖から受け継いできたモーセの律法が相対化されていくのは、ある意味で必然的な流れとなります。特に異邦人への宣教へと開かれていくためには、どうしても通らなければならないプロセスでした。しかし、数百年間受け継いできた律法の伝統を変えていくということは、そう簡単なことではありません。このような状況におかれると、人間は2つの極端な動きをしがちです。ひとつは、わたしたちはすでにイエスさまによって救われているので何をしてもよい、特にイエスさまは罪人を救われるのだから、罪を犯せば犯すほど恵みが与えられるという考え方です。ですから、当然モーセの律法は不用となります。もう一方は、イエスさまはモーセの律法をなくすためではなくて、完成するために来られた、だからわたしたちは律法を遵守しなければならない、遵守すればするほど救われるという考え方です。これはまっとうな考え方に見えますし、マタイもこの考え方に従っているように思われます。イエスさまの言葉として「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである(5:17)」といわれています。この考え方はもっともだと思われますが、この箇所はマタイだけに見られる箇所であり、イエスさまに由来する言葉だとは考えられません。イエスさまの主旨からいえば異なっているといわざるを得ません。

最初の考え方が間違いであることは、すぐにわかります。しかし、2番目の考え方もまたイエスさまの思いとは異なったものなのです。なぜかといえば、これらは、方向こそ反対ですが、どちらも同じ考えだからです。つまり、どちらも人間が何かをすることで救われるとか、恵みを得られると説いているからです。イエスさまは、わたしたちが何かをすれば救われるとか、恵みを受けられるとはいわれませんでした。イエスさまは、わたしたちが何かをしたから救うとか、恵みを与えるのではなく、救うこと、恵みを与えること、またゆるすことはイエスさまの本質です。最初から、ただあなたを救いたい、それだけなのです。そのためにイエスさまは十字架にかかられたのです。そのままのわたしを救うためなのです。よくいわれるのは、イエスさまを信じれば救われますといわれますがこれも間違いです。イエスさまがわたしを救われるのは、わたしがイエスさまを信じたという結果ではありません。わたしたちはイエスさまが救ってくださることを信じるだけなのです。イエスさまはわたしの救いのために、わたしの信仰さえも必要とされないのです。だから、わたしたちが何かをすればするほど救われるという考え方は間違いなのです。しかし、わたしたちはそこまでイエスさまが思っておられることに、なかなか気づけません。その気づけないわたしであることを見越して、人間のことばとなって、わたしを救うと名乗り、「わたしはあなたを救う」と呼びかけておられるのです。その呼びかけが「イエス」という名乗りなのです。わたしたちがそのことに気づかされたなら、ありがたくて、悪いことなどしたいとは思わなくなるでしょう。でも、それなのに、善いことができなかったり、悪いことをしてしまうわたしたちなのです。わたしが自分でわたしを救うことができるのであれば、イエスさまはわたしを救おうとは思われません。そのようなわたしをどうすることもできないから、イエスさまはわたしを救おうとされるのです。そのイエスさまの働きがわたしたちに振り向けられたものが信仰なのです。そして、その救いの真実が神の国と呼ばれているのです。

ですから、そのイエスさまとの出会い、その真実、神の国が体験されているとき、それを証し、生きる場として教会共同体の存在があるのだといえます。教会そのものにゆるしたり、解いたり結んだりする力があるのではなく、教会はただイエスさまの救いのしるしとして奉仕し合うだけなのです。教会はあくまでも、イエスさまの救いの働きがあらわれる場であって、その教会にゆるす側とゆるされる側、解く側と解かれる側、救う側と救われれる側の区別があるのではないのです。それを、わたしたちはいつも勘違いしてしまいます。そもそも、教会がつまりわたしたちの生き方が、イエスさまの生き方に由来するゆるし合い、支え合い、助け合い、愛し合いでなければ意味がないということなのです。そのときにこそ、聖体の秘跡、ゆるしの秘跡が教会の中で本当の効力をもつ秘跡となります。教会の生き方はともにゆるし合うこと、ともに支え合うこと、ともに愛し合うことを生きるのであって、教会が人をゆるしたり、解いたりするという権威をもっているなどと勘違いしてはならないのです。それこそ、イエスさまが一番嫌ったファイリサイ主義、律法主義に他なりません。そのことを勘違いしているのが、今の教会かもしれません。教会の誰が人をゆるしたり、解いたりできるというのでしょうか。教皇さまや司祭ができるとでもいうのでしょうか。そのような教会で行われる秘跡であれば、それは単なる儀式に堕落し、何の力ももたないものになってしまいます。聖体の秘跡、ゆるしの秘跡などの秘跡は、そこで行われる儀式のことを指しているのではありません。教会であるわたしたちが、ゆるし、相互扶助、信頼関係、相互愛を生きていること、それがまことの秘跡であり、そのとき諸秘跡は真実の秘跡となり、教会共同体そのものが真実の秘跡となって、この世界に対して証しとなっていくことができるのです。今日、わたしたちは各々の思い違いを正し、小さなものとなって歩めるようその恵みを願いましょう。

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