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教会からのお知らせ

年間第24主日 勧めのことば

2023年09月17日 - サイト管理者

年間第24主日 福音朗読 マタイ18章21~35節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所はゆるしということがテーマになっています。王の家来と家来の仲間の借金の額を際立たせることで、神のゆるしと人間同士のゆるしを説明しようとするものです。主の祈りの「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」の解説のようでもあり、神さまがわたしをゆるしてくださったのだから、わたしたちも兄弟をゆるしましょうとか、兄弟の罪をゆるしますから、わたしの罪をゆるしくださいといった教訓話として説明されてしまいます。しかし、今日の箇所の中心は別のところにあるように思います。それは本当にゆるされ、救われなければならないのは誰かという問いだと思います。

今日の聖書の箇所は、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回ゆるすべきでしょうか。7回までですか」という弟子の問いに対してイエスさまが語られたたとえ話となっています。ここで弟子たちの取り上げた問題は、わたしがどこまで兄弟をゆるすかということです。つまり、自分はゆるす側であって、ゆるされなければならない側であるとか考えていないということなのです。実は、このことがそもそも大きな問題だといわなければならないと思います。王の家来が負っていた借金は1万タラントンといわれています。1タラントンが6000万円位といわれていますから、それの1万倍ということになります。普通、一個人ができる借金の額ではありません。自分の持ち物、自分、妻、子で返せるような金額ではありません。しかし、この家来は厚かましく「どうか待ってください。きっと全部お返しします」というのです。これは、ただの一時しのぎの言い逃れか、あるいは、借金をしているという意識がなかったのではないか疑うような言葉です。それに対して、この家来が仲間に対して貸していたのは100デナリオンです。1日の日給が1デナリオンですから、まあ、100~200万円程度です。これならば、人間が返すことのできる金額です。問題なのは、王の家来がどのようにしても返すことができない借金をしているのに、そのような借金をしているという意識がほとんどなかったということではないでしょうか。そして、その借金を自分はゆるされたということに気づいていなかったということだと思います。

わたしたち人間はいろいろないのちによって生かされています。そもそもいのちの代価等あり得ないものなのですが、スーパーにいけばありとあらゆる食材が売られています。小さな鳥であれば少しの飲み水と少しの餌で生きていきます。獰猛な狼であっても、最低限必要ないのちを狩って生きていきます。しかし、食物連鎖の頂点に君臨する人間はありとあらゆるいのちを狩って生きています。人間は、その食物連鎖の頂点に君臨する王のような存在です。王とは、この地球の中で、すべてを自分の意のままにすることができる存在です。所有欲と名誉欲と支配欲を一手に納めているのが王なのです。そして、自分の思いを通すためであれば、すべての自然界を支配し、またすべての人間界をも支配しようとしますし、手段を選びません。わたしたちが生きていくということは、大なり小なり、ありとあらゆるいのちに負っており、それらのいのちなしにはわたしたちは生きられない存在なのです。それなのにわたしたち人間は、自分たちが万物の霊長であるとして、ありとあらゆるいのちを狩り、搾取し、強奪しているのです。そのためであれば、他の人間をも容赦なく搾取し、殺略してきたのです。わたしが生きるということは、他の多くのいのちの犠牲のうえになり立っているのです。しかし、普段はそのようなことを考えもせず、スーパーで楽しく買い物をしています。しかし、このいのちの糧がわたしのところに届くために、どれだけ多くの人の手をかりて、どれだけ多くのいのちが奪われ、どれだけ多くの犠牲、あるときにはいのちさえも奪われてきたかについて思いが至らないのです。

日本では食事のときに、おいのちをいただきますと感謝して「いただきます」といい、おいのちをごちそうさまでしたといって謝恩を表してきました。今日の福音に出てくる王の家来は、そのように自分がいのちによって生かされ、守られ、養われていることに気づかず生きている、わたしたち人類の代表のようです。ここに出てくる王さまとは、すべてのいのちの源であり永遠のいのちである神さまであるといえるでしょう。わたしたちは生かされている、恵まれている、そして養われていることが当たり前となっており、そのことに気づきません。そのことに気づかずに、ありとあらゆるいのちを当然のこととして奪って生きてきました。人間を万物の霊長であると教えてきたのはキリスト教です。そして、キリスト教は長い間、洗礼を受けている人間にしか人権を認めてきませんでした。根底にある問題は、生きとし生けるいのちへの感覚の欠如です。そして、いのちの感覚の欠如を助長してきたのです。その自覚のなさが、近代の世界におけるありとあらゆる差別、搾取、戦争を引き起こしてきたのです。

このように見ていくと、実はわたしたち人間こそが、この地球上でもっともあわれで、残虐で、救われ難いものに他ならないのです。まさに今日の福音の王の家来とは、わたしたちのことなのです。それなのに、自分は何度まで兄弟の罪をゆるさなければなりませんかと問うているのです。わたしが兄弟をゆるす前に、ゆるされなければならないのはわたしなのです。他の誰よりもゆるされ、救われなければならないのは、このわたしなのです。このわたしは、宇宙の初めから救われようがないものなのです。わたしは悪い人間ですというのは、単なる道徳的反省に過ぎません。また、聖人ぶって、わたしは罪人だというかもしれませんが、わたしが罪人だなんてことは決して自分ではわからないのです。罪人の自覚がないというのが罪人の本性なのです。わたしはどうせ罪人ですからとかいいますが、そんなこといわなくても、わたしはもとより罪人なのです。わたしたちは、イエスさまの光に照らされて、初めてわたしが罪人であることがわかってくるのです。どんなに一生懸命糾明しても、それは所詮道徳的な反省であって、反省する自分などたかが知れています。罪人であるということは、自分でわかることでもないし、自分でいうことでもないのです。家来は、口先では王さまにゆるしを乞い、感謝するかもしれませんが、兄弟のことは何も考えられない、つまり地獄行きの身には何も変わりがないのです。それがわたしの身だということなのです。そのわたしたちを救うというのがイエスさまの願いです。そのイエスさまの願いに会わない限り、兄弟をゆるしましょうというのも、単なるスローガンで終わってしまうのです。その人は、自分はゆるされる必要があると思っていないからです。わたしたちは、イエスさまのわたしを救うという願いに出会わせていただくときに、決して救われない自分の存在に目覚めさせていただくことができるのです。兄弟をゆるさなければなどと思っている間は、実はわたしたちは何もわかっていないのです。そのような愚かな身が知らされること、これが今日の福音のテーマではないでしょうか。

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