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教会からのお知らせ

年間第26主日 勧めのことば

2023年10月01日 - サイト管理者

年間第26主日 福音朗読 マタイ21章28~32節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は2人の息子のたとえが語られます。ここ数週間、共観福音書に並行箇所のないマタイ固有の箇所が朗読されています。今日のたとえは、畑にいくといっていかなかった弟と、いかないといっていった兄の話です。このようなたとえ話が読まれると、さて自分はどっちだろうという話になりがちです。そして、いつでも考え直す機会が与えられているという教訓話になってしまいます。これなら、わざわざたとえで話すまでもないことです。このような読み方や説教が間違いとはいいませんが、ある意味で視点がずれているといえると思います。なぜ、そのような読み方になるのかというと、自分が救われるかどうかばかりを気にしているからだといえます。宗教において、救いは重要関心事ですが、イエスさまがわたしたちに問うておられるのはわたしがどうしたら救われるかではないのです。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」といわれていますが、それでは畑へいかなかった弟は神の国に入れないのかというと、そういうことではありません。

今日の福音が問題にしているのは、誰が神の国に入れるか入れないかということではありません。わたしたちは、イエスさまが望んでおられるように、畑にいって働くことで救われると思っています。つまり、イエスさまの望みを聞いて、最初はそれが嫌かも知れないけれど、自分の心で考え直して、わたしが自分で決断して畑にいって働けば救われると考えているのです。これは一見正しいことのように思えますが、これだけなら自分の心をどういうふうにするのかだけの話です。つまり、わたしが自分の心を変えることが救いにかかっていると考えているということなのです。イエスさまの話を聞いて、自分の心を整えて、イエスさまによって救ってもらえるわたしを作り上げようとしているわけです。わたしたちは、イエスさまにちゃんと救ってもらえる、理想のわたしになっていくことで救われると思っているのです。なぜそうなるのかというと、今、イエスさまによって救われていることをわたしは知らないからなのです。よく、今日のお話はよかったとか、自分の心をみて今のままではだめだから、自分の心をこしらえて救われていこうとする、これは未来の自分を作り上げようとしているだけなのです。わたしが自分の心を整えて、こしらえても、どこまでいってもわたしの心はぐらぐらです。わたしたちは、まことの心にならないと救われないとどっかで教え込まれているのかもしれません。しかし、まことの心などわたしの中にあるはずがありません。

今日のテーマは、神の国は、今のわたしに対して呼びかけとなっているということなのです。このたとえ話を表面的に読むと、徴税人や娼婦たちは神の国に入れるが、祭司長や民の長老は神の国には入れない、だから心を改めましょうというふうに読んでしまいます。そんなことは何処にも書かれていません。神の国はすべての人に対して平等に開かれており、平等な呼びかけとなっているということなのです。わたしたちは、誰が入れて誰が入れないとか、誰が救われて誰が救われないとか、ものごとを二項対立で理解しがちです。これが根本的に間違っていることなのです。イエスさまがあなたは神の国に入れるが、あなたは入れないといわれる方でしょうか。そうではなく、イエスさまの呼びかけは、今、直ちに来たれという呼びかけなのです。そのことだけがいわれているのです。イエスさまの呼びかけは、他の誰でもない、今のわたしに届いているのです。何年か後によくなるだろうわたしに届いているのでも、救われ難いとわたしが思っている他の誰かに届いているのでもありません。わたしが生きている今というとき、この刹那のときに、わたしに届いているのです。イエスさまは、わたしの心を整えてから来なさいといわれません。今のわたしに、まことの心などあるはずがありません。しかし、今、直ちにそのまま来たれ、わたしはあなたを救うというのがイエスさまのお呼びかけなのです。ですから、まことの心はわたしの心ではなく、今のわたしを呼んでおられるイエスさまの心なのです。

子どものころお盆になると、お寺で地獄極楽の掛け軸が掛けられて、みんなでそれを見に行きました。極楽の方の掛け軸は子どもたちに人気はなくて、みんな地獄の方に集まっています。どうしてでしょうか。嘘をついた人は舌をぬかれ、いのちを傷つけたものは針の山を登らされる。地獄の絵というのはみんな、それなりに身に覚えがあるのです。極楽の絵は、すべてのものが平等に救われていく世界ですから、誰も身に覚えがないので人気がないのです。そのようなわたしが、地獄にいかないように自分の心をどうこうすることなど、たかが知れています。悪を避けてよい人になりなさいなどというのは、自分の心を少しましなものにしようとする心でしかありません。わたしたちが自分の心をこしらえて救われていくことではないのです。そうではなく、地獄いきのその浅ましいわたしに、直ちにそのまま来たれというのがイエスさまであり、神の国の呼びかけなのです。わたしが心で決めて、畑にいったかいかなかったというような問題ではないのです。それは結果であって、どちらが救われて救われないとか、どちらがよくてよくないという話ではありません。そんなことに一切関係なく、そのままのわたしをイエスさまは今、呼んでおられる、そしてその呼びかけがわたしに届いているということなのです。これは、呼びかけがわたしに届いていることを信じることでさえないのです。イエスさまの呼びかけがわたしの心に届いて、わたしの心を動かしているイエスさまのまことが、イエスさまよりいただく信仰なのです。わたしが信じる心を作るのではないのです。わたしが信じたこと、わたしが納得したこと、わたしが積み上げてきた祈りとか善行によって救われていくのではないのです。そんなものは、何かがあればすぐにあえなく崩れ去ってしまいます。わたしの思いはすべて疑心でしかありません。そこに救いはないのです。わたしを救うといって、わたしを呼ばれていることだけが真実であり、そこにまことの信仰の根拠、救いがあるのです。

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