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教会からのお知らせ

年間第26主日 勧めのことば

2023年10月07日 - サイト管理者

年間第27主日 福音朗読 マタイ21章33~43節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はぶどう園に息子を送る主人のたとえ話です。このたとえ話は、明らかに救いの歴史における御父のこの世界への御子の派遣と御子の受難の物語です。わたしたちは何度も、このような話を聞いていますから、そのことを当たり前のように聞いています。しかし、現実はわたしたちが考えているより、もっと深いものです。ぶどう園の主人は、すでに自分の僕をぶどう園に何度も送っていますが、いずれも散々な目にあっています。中には殺されたものもでるぐらいです。そこに、自分の最愛の息子を送ろうというのです。まさに旧約の歴史、その頂点である御子の受肉、御子の派遣の出来事であるといえるでしょう。

あるとき、教会学校でこのぶどう園の話をしていたら、ある子どもが、「そのお父さんはずるい。危険な目にあうのがわっていて、自分が行かないで息子をいかせるなんて」といいました。確かに嫌なことは自分でしないで、他の人にさせるとかいうようなことは巷には溢れています。お父さんは保身に走り、息子を犠牲にしたというふうに捉えられても仕方ありません。それも、息子が殺された後、ぶどう園にいって僕たちを皆殺しにするぐらいなら、最初から自分がいけばいいのにと考えるのも当たり前の反応だと思います。ここで、いくらお父さんは自分の子がとても大切だから、あえてぶどう園に送ったのだとか、そこから贖罪論を説明しても、現代人が理解するのはかなり無理があると思います。しかし、聖書が書かれた時代、父と子の関わりというものにたとえて、神さまの本質が何であるかを述べようとしました。しかも、わざわざたとえで話すということは、ぶどう園の主人の思いというものは、わたしたち人間には決してはかり知ることができないものであることを知らせるためだったのではないでしょうか。

わたしたちの存在はそれぞれが置かれている状況や場面によって、あり方が変わってきます。つまり、わたしたちは他者との関わりによって、自分の存在のあり方が決まってくる関係存在であるといえます。今日の福音の中では、主人と僕、僕と労働者、主人と畑の労働者、父と子という関わりが出てきます。僕は主人がいてはじめて僕という立場があり、主人も僕がいて主人という役割が成り立ちます。この主人と僕の関わりは、主従関係といえます。主人と畑の労働者、僕と労働者もいずれも主従関係でしょう。しかし、父と子の関わりというのは主従関係ではありません。親子関係なのですが、この親子関係というものは、人間の関わりの中でもっとも根本的な関係であるといえます。わたしたちは親子関係を理解するときに、すでに親となる存在があって、あるときにその存在が親になると考えます。つまり、親は子の存在より先行していると考えるのです。確かに、生物学的にいえば、親となる個体は子の存在より先行しています。親は子より長く生きているという意味において、先輩であるといえるでしょう。しかし、純粋に親子という関係を見ていくと、親は子どもがいなければ親になることはできません。子どもも親がいない子どもというものはいません。その意味では子どもが3歳であれば、親も3歳しか親としては生きていないのです。ですから、親子関係というものの中に本来、上下、主従関係というものはありません。親は子どもによって親にならせていただいているのであり、子どもも親によっていかさせていただているのです。親子の本来の関わりは、お互いに相手があってはじめて、自分がいさせていただく関わりであって、親と子とはある意味で一体であるといえるでしょう。そのことをイエスさまは「わたしと父とひとつである(ヨハネ10:30)」といわれました。だから、本来的には子どものいのちは親のいのち、親のいのちは子どものいのちであり、子どもの喜びは親の喜び、親の喜びは子どもの喜び、子どもの痛みは親の痛み、親の痛みは子どもの痛みなのです。

ですから、このひとつという意味は、親しいとか、固く結ばれているという外的な一致を説明するだけではなく、パウロのキリストの体のたとえでいわれるような存在論的な一致を意味しています。そのような意味でいえば、わたしたちも神の子らとして、神のいのちをいただいて同じ神のいのちを生きているものとして神さまとひとつです。また、そのいのちをともにいかされているものとして、わたしたちはこの世界とひとつであるといえます。このようないのちそのものの根源的なあり方を、今日のたとえ話では父と子として示されているのだといえばいいでしょう。わたしはこの世界なしにはあり得ない、またこの世界もわたしなしにはあり得ない。同様にわたしは神さまなしにはあり得ない、神さまもわたしなしにはあり得ない。なぜなら、本来わたしたちはひとつ、“いつ”だからです。ですから、父親が子どもをぶどう園に送るのは、それは自分がいくことと同じなのです。そこで子どもがひどい仕打ちを受けることは、自分の身にそれを受けることなのです。このような存在論的な深みまで入っていかないと、今日の箇所を真に理解することはできません。しかし、近年親子の強弱関係の面がクローズアップされ、虐待とかさまざまな関わりの歪みが社会問題として表れてきています。ですから、神さまの本質を親子、父と子の関係から説明するという教会の手法自体が、現代では破綻しているといっていいのかも知れません。わたしたちは、神さまにについて語るのに、もっと他のことばを探さなければならないのかもしれません。

わたしたちとこの世界、この社会、他者との関わりを見てみると、どこまでいっても自分を中心にして、自分を上位におき、自分以外のものを下位において、それらを支配し、所有し、コントロールする対象としてしか見ていません。それが今日の福音の中で、いのちを搾取し、強奪し、殺略していくぶどう園の労働者の姿として描かれています。これは、まさに人間の姿が描かれているのです。仏教では六道ということがいわれています。地獄、餓鬼、畜生、人間、羅刹、天は、人間が生まれ変わる6つの存在様式として説明されています。そうではなく、六道というのは、わたしが生きている姿そのものを教えているのです。天というのは快楽が満たされる世界、羅刹は憎しみと戦いの世界、畜生は弱肉強食の世界、餓鬼は終わることがない貪欲の世界、地獄はひとりぼっちの世界です。それは、どこかにあるのではなくて、自分のいのちにだけ執着して生きているわたしたち人間の中にある現実なのです。そのようなわたしたちにまことのいのちが現わされた出来事、それがイエス・キリストなのです。ですから、親子関係というものが破綻している現代において、そのことを聖書のたとえ話として語るのではなく、イエスさまにおいて現実に起こった真実そのものを伝えていくことの方が適当なのではないかと思います。

イエスさまこそがまことのいのちであり、そのまことのいのちは、自分から出ていくこと、自己超越していくことで、いのちとなっていくということです。そのことを救いといっているのです。ただ、いのちはわたしという輪郭を取ることによってしか、まことのいのちになることができません。けれども、わたしがわたしという輪郭の中に留まることに拘るのであれば、まことのいのちを生きることはできないのです。いのちは、自分という枠を自ら壊していくことによってしか、まことのいのちになることはできないのです。これが生きとし生けるもののいのち本来の自然な姿、まことの姿なのです。親子という関係性でいのちを理解していくのではなく、いのちそのもののもっている本来のあり方をイエスさまの生き様として捉えていくことの方が現代人にはわかりやすいと思います。この自分を超えていくという動きは、人間の努力によるとか、子を送るお父さんの意志であるというより、すべてのいのち本来のもっている願いであると捉えることができると思います。だから、イエスさまは「野の花を、空の鳥をみなさい」といわれました。それをいのちのダイナミズム、願いであると捉えていく、人間の努力とか意志とかによるというより、そのいのち本来の願い、働きであり、それは自然なもので、それにこそ目覚めよというのがイエスさまからの呼びかけであり、信仰であるといえるのではないでしょうか。

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