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教会からのお知らせ

年間第28主日 勧めのことば

2023年10月15日 - サイト管理者

年間第28主日 福音朗読 マタイ22章1~14節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音では、神の国が遍くすべての人に及ぶ救い、善人悪人を超えた救いであることが語られています。新約の時代になって、婚礼に招かれているのは、あらかじめ用意ができているふさわしい人たちだけではなくなりました。そのことが、町の大通りにいって見かけたものは、善人も悪人も皆、婚宴の食事に招くこととして示されています。イエスさまの説く救いは、善人悪人という区別を超えたものであることがはっきりといわれているのです。しかし、ここで問題にされていることは、婚礼の礼服を着ていないものがいたということです。この婚礼の礼服についてはいくつかの解釈があり、一般的には神の国に入るためにふさわしい行いのことであると聖書学者たちは説明しています。善人悪人を問わないといっていながら、神の国に入るためのふさわしい行いが改めて問われるのはどうしてでしょうか。善人悪人を問わないといいつつ、また行いのふさわしさを問うというのであれば、自己矛盾に陥ってしまわないでしょうか。今日はこの問題を考えていきましょう。

今日の福音書の結びのことばは「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」となっています。これをみると、誰もが無条件に救われるわけではないと主張しているとしか読めません。これでは、すべての人の救いを説くという福音の教えにすでに矛盾があるわけです。実は、無条件の救いを理解することは非常に難しく、教会の中では、救いのために必要な条件として2つの考え方がいわれるようになっていきました。ひとつはパウロに代表される「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって無償で義とされるのです…人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による(ロマ3:24~)」と述べて、救いに必要なのは行いではなく、(わたしの)信仰だと主張しました。その一方で、ヤコブは「行いの伴わない信仰は役に立たない(ヤコブ2:20)」として信仰に基づいた行いの重要性を説きました。この信仰か行いかという論争がなぜ起こったのかというと、信仰のみといえば、行いはどうでもよく、信仰者としてふさわしくない行動を取る人が現れるかもしれない。また、行いも必要だといえば信仰の必要性よりも、もっぱら行いに目を向けるファリサイ主義に陥る危険性がある。このことは教会の中で、行いか信仰かというカトリックとプロテスタントの長年の議論ともなっていったわけです。しかし、ここで指摘しなければならないのは、信仰か行いかという議論自体が、人間の次元での議論になっているということです。善人も悪人も救われる、つまり救いは人間の信じるという行為や人間の行いに関係ないといっておきながら、今日の福音では、婚礼のための礼服は神の国に入るためにふさわしい行いであると解釈されていることです。これは、人間の善悪を問わないといっておきながら、結局は人間の行いをふさわしいふさわしくないと区別して、招かれた人の中に、ふさわしいふさわしくないという善悪の基準を作り出していること、神の招きと選びの線引きをするという根本的な矛盾を作り出しているということです。

結局は、人間の救いを、善人悪人を問わない一切平等の救いであるといいながら、ふさわしいふさわしくないという区別を作り出し、人間としてよいものとなって救われていくのだという振り出しに戻っているということです。人間は何が善で悪であるかわからないのにも関わらず、自分はよい人でありたい、どこかでよい人になって救われていく、悪いことをすれば救われないというふうに、わたしの善悪に捉われている姿が繰り返し現れてきています。わたしたちは宗教を聞けば、善悪がはっきりすると考えていますが、むしろ宗教を求めれば求めるほど、善人でいきたいとおもっていても、自分の身を自分で決められない我が身が知らされるのではないでしょうか。もし、今、わたしが善人の顔ができているとしても、それはたまたまであって、状況が変われば何をしでかすかわからないのがわたしの身です。わたしたちは、他の人たちが救われなくても自分は救われると思っています。しかし、これは本当の自分の姿を知らないだけであって、わたしたちがイエスさまとの関わりを深めていけばいくほど、世界中の人が救われても、わたしは救われないということが見えてくるのです。もし、その自覚がないのであれば、わたしの信仰生活はほとんど進んでいないということになります。わたしたちは、わたしはまともだと思っている、わたしは婚宴に招かれて、ふさわしい礼服を身に着けていると思っている、これこそがわたしたちの迷いなのです。

わたしたちがどれだけ熱心に信じても、わたしたちがどれだけ善行を重ねたとしても、それは人間の業でしかないのです。わたしの信仰も、わたしの行いもそれは所詮人間が作り出したものであって、それは人間の私利私欲にまみれたものでしかありません。それを信仰か行いかといって議論していることこそが、愚かな人間の迷いに他ならないのです。人間の迷いとはわたしの心の問題に留まっていることです。  

わたしたちは、わたしの信仰によって、わたしの行いによって救われるのではありません。教会は、「律法の実行によってではなく、キリストへの信仰によって義とされる(ガラテア2:16)」と教えてきました。つまりイエスさまを信じるというわたしの行為が、救いの条件であると教えてきたのです。しかし、「キリストへの信仰によって義とされる」という訳は、信じる主体としてのわたしを主語として訳すのではなく、救う主体であるキリストを主語として「キリストの信仰によって義とされる」と訳されるべきであるということが、近年の聖書学でいわれています。わたしたちは、「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって無償で義とされる」のであって、わたしがイエスさまを信じるというわたしの行いによって義とされるのではないのです。「キリストの信仰による」救いというのは、イエスさまがわたしを必ず救うと誓われたその願い、その誠実によって、わたしたちは救われるという意味なのです。わたしが救われるのは、救われるためのふさわしい行いや、救われるためのふさわしく信じるというわたしの行いによるのではないのです。救われるためのふさわしい行いも、救われるためのふさわしいわたしの信仰も、わたしが基準になっているだけで、イエスさまの救いの根拠にはならないのです。

パウロが「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって無償で義とされる」といったことを、初代教会でさえも理解することが難しかったというのが現実だと思います。結局、パウロの手紙のほぼ30年後に書かれたマタイ福音書においては、人間が救われるための条件として、救われるためにふさわしい行いという概念を導入してくるのです。そして信仰も、神さまがわたしを救うと仰っている、神さまのわたしへの信仰ではなく、わたしの神さまへの信仰と読み替えられていくようになっていきます。それほど、イエスさまの語られた神の国の福音、遍くすべてのものが救われるということは人々には理解しがたく、受け入れることが困難であったということです。ですから、ファイリサイ人で律法の遵守や信仰生活に人一倍熱心であったパウロが、もはや律法を守るという人間の行いによって、自分の信仰心によって義とされるのではなく、イエスさまの信仰、イエスさまがすべての人を救うと誓われたイエスさまの誠実によって義とされるのだと宣言するときの力強さは有無をいわせない力があります。パウロの「キリストへの信仰」と訳されてきたピステスという言葉は、「キリストの誠実」、「キリストの真実」と訳すべき言葉です。それを教会は2千年の間、「キリストへの信仰」と訳し続け、救いのために必要な人間の信じる行為、また人間の行いを強調し続け、イエスさまの救いの真実を覆い隠してきたということは謙虚に認めなければならないと思います。救いを、人間の手から、教会の手から、イエスさまにお返ししなければならないのです。イエスさまの真実-善人悪人を超えた遍く救い-に、今日、わたしたちを真に気づかせてくださるよう恵みを願いましょう。

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