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教会からのお知らせ

年間第29主日 勧めのことば

2023年10月22日 - サイト管理者

年間第29主日 福音朗読 マタイ22章15~21節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は共観福音書のマタイ、マルコ、ルカに並行箇所のある朗読です。ファリサイ人とヘロデ派という2つのグループが出てきますが、この2つのグループは通常は行き来をしない人たちです。しかし、イエスさまを罠に陥れるという自分たちの利害のためであれば仲良くなるという、人間の醜い姿が描かれていきます。

ファリサイ人たちは、律法に徹底的に従う生き方を追求した人たちであり、ローマ皇帝を神として信奉するローマ帝国の支配は律法の遵守を妨げていると考えていました。ですから、皇帝に税金を納めることをよしとしませんでした。それに対するヘロデ派というのは、ローマ帝国による傀儡政権であるヘロデ王家を支持する人たちですから、当然皇帝に税金を納めることをよしとしていました。そのような主義主張が異なる2つのグループは、決して行動を共にすることはなかったのです。しかし、自分たちにとって都合の悪いイエスという人物を陥れるためであれば、協力し合ったという事実が描かれています。このようなことは、人間の世界にはいくらでも起こることなのです。初代教会でステファノの殉教の直後に起こった迫害においても、12使徒のグループだけは迫害を免れており、ディアスポラと呼ばれた国外居住のユダヤ人の弟子たちが迫害されています。日本26聖人の殉教のときも、フランシスコ会士は逮捕されていますが、イエズス会は迫害を免れています。

今日の物語で、イエスさまを罠にはめようとした人たちの挑発に対して、イエスさまは彼らの土俵には乗られませんでした。彼らは人間の欲と思惑の中に生きていましたが、イエスさまはその質問を逆手にとって、そのように生きている彼らの土俵自体を問われたのです。それが「これはだれの肖像と銘か」という問いです。通常貨幣には、その国の銘と肖像や国家権力を象徴するものが刻印されています。つまり、その貨幣はその国でだけ通用する価値観であったり、文化や思想をも表しているのです。それによって、その貨幣がその国のものであることを主張するわけです。その貨幣がその国のものであれば、当然その貨幣はその国に所属するものです。デナリオン銀貨には神である皇帝の銘が刻まれています。皇帝の銘が刻まれているのであれば、そのデナリオン銀貨は皇帝のものです。それでは、あなたがたは一体だれのものか、何者かということが問われているのです。ですから、今日のテーマはわたしたち人間、そしてこの世界、すべてのものは一体なんであるかという問いなのです。それが皇帝から来ているのであれば皇帝に返しなさい。もし、これが神から来ているのであれば神に返しなさいということです。わたしたちは、このわたしを、この世界を、この宇宙をどのように理解しているのかということが問われているのです。

一般的な聖書の世界観では、創造主が天地万物を創造していのちを与え、被造物の頂点として人間を創造し、他の被造物を人間の支配に委ねたと考えられてきました。モーセ5書はいくつかの伝承で構成されていますが、創世記の天地創造の記述は、紀元前4世紀に成立した比較的新しい祭司伝承と、もっとも古いといわれているヤーウェ伝承によって構成されています。特に人間を万物の頂点として考えるものは、祭司伝承によっています。しかし、創世記の中心的なメッセージは、神がすべてのいのちあるものの源であり、いのちそのものであるということを述べようとするものです。人間とこの世界、他の被造物との間に優劣をつけるという考え方は、聖書の中でも後代のものであるといえます。しかしながら、人類が万物の霊長であって、神に代わって他の被造物を支配し利用するという考え方は、ユダヤ教、キリスト教の中で主要な教えとして広まっていきました。この土地はわたしたちの先祖が神からもらった土地だというユダヤ教のシオニズムは、まさにそのような世界観に基づいているのです。そして、その発想がヨーロッパ世界に広がっていき、国家が築かれ、キリスト教的世界観に基づいた社会が作られていきます。その発想が大航海時代、植民地政策、産業革命を引き起こし、その世界観が現代世界の主要な価値観になっていきました。日本も明治以降、そのような世界観に飲まれていきます。現在のSDGsという発想も、よい点もありますが、所詮ヨーロッパ由来のものであり、この自然界を人間に都合よくコントロールしようとする人間中心主義の世界観から出てきたものです。

しかし、イエスさまの思いは、このものの銘はだれのものか、これは誰のものかという人間中心主義の発想ではありません。そもそも、あなたがた生きとし生けるもののいのちの根源は何かということを、イエスさまは問われたのではないでしょうか。あなたがたは、このコインの銘をたずねている、つまり誰の所有物であるかをたずねているが、この宇宙にユダヤ人のもの、ローマ皇帝のもの、人間のもの、わたしのものといえるものがあるのかということを聞いておられるのです。そして、わたしのものだと主張しているあなたは一体何者かを問うておられるのです。

わたしたちは、自分の思い通りになるものをわたしのものであると思い込んで生きています。そして、わたしのものと思うものの範囲を広げていくことを人類の進歩、成長と教育されてきました。そこまでいかなくても、わたしたちはこういうことができる、こういうものをもっている、こういう資格をもっているということがわたしの価値を決めるかのように考えています。ですから、小さいときから、何かができたということを褒められ、優劣、競争の中で、人よりできること、より優れていることを求められ続けてきました。しかし、わたしたちが呼吸をしたり、心臓が動いたり、血液が流れたりというもっとも基本的なこと、生きているということを、わたしは自分の力では何もできないのです。そして、わたしは空気、水、光、食べ物、飲み物等それらなくしては、生きられない存在なのです。わたしは、わたしだけではわたしになれない、わたしになることさえできない存在なのです。それなのに、わたしをわたしでないものと区別して、区別したものをわたしのものであると勘違いして、その範囲を広げようとしているのがわたしなのです。わたしは、元々わたしだけでは生きられない、この世界、宇宙そのものの中に根を張って存在しているのがわたしです。この世界、この宇宙なしにはわたしは存在することができないのです。その世界を、その宇宙をわたしのものであると主張し続けているわたしがいるのです。もともと、わたしとわたしが区別しているものとは別のものではありません。わたしが区別しているだけであって、わけることができないひとつのいのちである、それが「神のものは、神に返しなさい」といわれたことなのです。

そのことをわたしたち日本人は、わたしたちが生きているのではなくて、「いかされている」とか「いかしていただいてる」といっていました。わたしが自分で生きていると主張する現代の世界観ではなく、イエスさまは、わたしたちは生かされているのだと仰っているのです。日本では、わたしが働きますとはいわないで、「働かせていただきます」とか「働かさせていただきます」といいます。それは、俺が自分の力で働いて稼いで、その金で食べているんだというのではなく、わたしが働けるのも、食べられるのも、すべて大自然の力や人々の助けのおかげさまと感じているということなのではないでしょうか。だから、わたしが食べるとはいわないで、「食べさせていただきます」、すなわち「いただきます」といっていのちをいただく、食事をするのです。食べさせていただけるのも、太陽、雨、空気、大地、それを育てる人、運ぶ人、商う人などいろいろなものや人の手を借りて、わたしのもとにいのちが届けられているということを知っているので、俺が自分の力で稼いで、その金で食っているとはいわないのです。そこには、これは誰のものだ、わたしのものだ、俺のものだという発想がありません。すべていただいたものなのです。これは、古来日本人が生きてきたことなのです。イエスさまは「皇帝は皇帝に、神のものは神に」ということで、創世記に描かれている本来のいのちの世界を示されたということができるのではないでしょうか。

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