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教会からのお知らせ

年間第31主日 勧めのことば

2023年11月05日 - サイト管理者

年間第31主日 福音朗読 マタイ23章1~12節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、イエスさまが律法学者とファリサイ人を痛烈に批判される箇所になります。もともとマルコ福音書にある短い律法学者への批判を、マタイは律法学者とファリサイ人批判として大幅に編集しました。ここまで徹底的に、律法学者とファリサイ人を批判しなければならなかったのは、当時のマタイ共同体の置かれていた状況が関係していました。マタイ福音書は、紀元70年のエルサレムの滅亡後、80年頃に書かれたといわれています。イエスさまが亡くなって、もう半世紀50年がたっています。それまでのキリスト者たちは、ナザレ派として緩やかに神殿や律法を大切にしながら、ナザレのイエスを救い主として信じるユダヤ教の中の一グループとして存続してこられました。しかし、エルサレムの神殿崩壊後、ユダヤ教は神殿宗教からモーセの律法を忠実に守るというファリサイ主義の姿勢を固めていった時代でもあったのです。その厳格さは、ユダヤ教の中にあったいろいろの宗教的なグループを許さず、律法を中心としたファリサイ主義のみとなっていきました。キリスト者たちは、もはやユダヤ教の中には留まることは許されず、ユダヤ教から独立して異邦人宣教へと向かっていかなければならなかった時代でもあったわけです。そのような状況の中で、マタイ共同体は自らのアイデンティティを再構築していかなければならなくなります。改めてキリスト者とは何かが問われていったのです。

初代教会において、イエスさまの福音の本質を純粋に体験したのは、おそらくパウロだったと思います。パウロは手紙の中で、「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない(ガラテア2:16)」といって律法を無効化し、イエス・キリストの信仰によって、信じる者すべてに神の義が与えられると宣言しました(ロマ3:22)。続いて「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって無償で義とされる(同3:23~24)」とイエスによる無償の全人類の救いを宣べ、「わたしたちが義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです(同3:38)」と説明します。パウロは、ユダヤ教の律法というものを相対化し、イエス・キリストの贖いの業によって全人類が義とされる、つまり救われるということを宣言したのです。信仰というのも、イエス・キリストの贖いの業によって義とされることを信じることであって、わたしたちが義とされるためにイエス・キリストの贖いを信じることではないのです。信仰というのは、イエス・キリストによって義とされたことがわたしたちにさし向けられた結果であって、義とされるための原因ではないのです。しかし、そのパウロが60年頃にローマで、その後ペトロも殉教して、初代教会の2人の主要な指導者を失います。ペトロも律法を守ることに拘っていませんでした。70年にエルサレムが陥落して、その後80年頃にマタイ福音書が書かれていきます。マタイ福音書が書かれていったとき、パウロが体験したイエスさまの福音、神の国について宣べ伝えるよりも、ユダヤ教から独立していった教会としての制度や教義、倫理に関心事が移っていきます。こうして、イエスさまの福音、神の国を、新しい律法として再解釈がなされていくのです。

イエスさまがいのちをかけて宣べ伝えようとされたのは、神の国の福音です。今日の第2朗読の中で、パウロが自分のいのちさえ喜んで与えたいと願ったのは、イエスさまの福音を宣べ伝えることでした。神の国は、すべての人のうちに働いている神の力、神の愛であって、何かわたしたちが信ずるべき教義や信条、教会のような制度でもなく、また将来や死後に到来する理想的な国土でもありません。神の国は、人間が従うべき新しい律法ではなく、また神さまの好意を得るのに相応しくなるために行わなければならない道徳でもなかったのです。むしろその反対で、神の国は、今現にわたしたち人間を生かし、わたしたちの中に働いている神の場であり、働きを指しているのです。しかし、わたしたちの中で神の国が働いている、イエスさまがともにいて、わたしたちを生かしてくださっているということをわたしたちが体験することは、非常に難しいことだといわざるを得ません。というか、わたしたちが生かされていること、そのいのちを体験することは、わたしたちが普段意識せずに吸っている空気を体験しろといわれているのと同じで、わたしたちに普通にはできないことでもあります。わたしたちがイエスさまによって救われていることを、何かによって確かめたり、証明したり、体験したりすることはできないからです。むしろそれより、新しい律法を守りなさいとか、こういうふうに生きなさいという方がわかりやすいのです。

しかしながら、わたしたちが生かされていること、救われていることを真に体験したならば、わたしたちはどのように生きなければならないか、誰かから教えられなくても自然にそのままわかってくるはずです。しかし、世代が変わり、パウロのようにイエスさまとの生き生きとした出会い、神の国、福音というものを体験することが難しくなっていったとき、イエスさまの福音をキリスト者の生き方とか、おきてとして話すことしかできなくなっていったのでしょう。わたしたちが信仰の継承を難しいと感じることと同じです。ですから、神の国の本来のあり方を、すべてのものは兄弟姉妹であって、わたしたちの間に上下、優劣等の差異がないのだと、旧約の律法を再解釈して話していったということだと思います。

なぜなら、わたしたちの中に、先生とか、父とか、教師といわれるような、上下関係、優劣を作り出さざるを得ないものがわたしの存在の根底に歴然としてあるからです。わたしたちは兄弟姉妹であって、そこに差異がないということをいわないと神の国の本来のあり方がわからないのです。もし、そのように生きていたら、兄弟姉妹だという必要もないし、兄弟姉妹なのだと意識することもありません。そのように意識されるということは、そうでない状況があるからなのです。わたしたちの世界は、教会も含めて、これほど上下、優劣の区別がひどいのはどうしてでしょうか。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」というのが教会の常套句ですが、このようにいわないではいられないほど、わたしたちは愚かなのだということなのです。

現在少子高齢化ということが盛んにいわれます。日本のGDPが4位になるとニュースになっています。なぜ、子どもが少なくて、高齢者が多いことがいけないのでしょうか。GDPが4位になってはいけないのでしょうか。それは、子どもが多いことはよいことで、高齢者が多くなることは悪いと考えている、つまり歳を取ること、老いることを悪と考えているからでしょう。そして、やっぱり下より上がいいと思っている。キリスト者といえども、本音では上がいい、偉くなりたいと思っている、だから仕えるものになり、へりくだるものになりなさいというその程度なのです。根底にある問題は、あらゆる物事を二極にわけて、たとえば生まれることはよいこと、おめでたいこと、死ぬことは悪いこと、縁起が悪いというふうに考えていることにあります。そして、そのことに気づきもしないほど、わたしたちは愚かなのです。死ぬのも生きるのもわたしの中で起こっていることなのです。

しかし、このような愚かなわたしたちが、イエスさまによって生かされ救われているのだ、このことが神の国、神の国の福音なのです。愚かなのは他の誰でもない、このわたしです。イエスさまがいのちをかけて伝えようとされた神の国の真実に、わたしたちの心の目が開かれるよう祈りましょう。

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