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教会からのお知らせ

年間第32主日 勧めのことば 

2023年11月12日 - サイト管理者

年間第32主日 福音朗読 マタイ25章1~13節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の賢いおとめと愚かなおとめのたとえ話は、マタイ特有のものです。神の国のたとえ話ですが、どういう意味で、神の国のたとえなのかわかりにくいところがあります。むしろ、このたとえは、マタイ共同体が直面していた主の来臨の遅延という問題に答えるためのものです。正直、このたとえ話からイエスさまの福音的メッセージを聞きわけることは難しいと思います。それで、マタイ共同体ではどういう問題に直面していたのかをお話ししてみたいと思います。

当時のユダヤ世界に広がっていた考え方に、終末思想というものがありました。社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代に、その困窮から人々を救うために、神が歴史に介入して困難を取り除かれ、正しい人々は救われ、正しくない人は裁かれるという勧善懲悪の歴史観です。当時イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、人々はこのローマ帝国の支配下から自分たちを解放し、苦しい生活を終わらせ、ダビド王のときのような豊かな国土に回復させることのできるリーダーシップのある王を、救い主、メシアの到来を待ち望むようになっていました。そのような状況の中で登場したのが、ナザレのイエスでした。人々はこのイエスという方に、力強いリーダーシップと指導力を期待していましたが、それは見事に裏切られました。イエスさま自身、ユダヤ人の期待するようなメシアではありませんでした。また、人々の期待するような力強い教えを説かれたわけでもありませんでした。

イエスさまのなさっていたことといえば、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中のデクノボーのようなものだったのだと思います。「野原の松の林の陰の小さな萱ぶきの家にいて、東に病気の子どもがあれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人があれば、行ってこわがらなくてもいいといい、北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろといい、日照りのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、皆にデクノボーとよばれ、ほめられもせず、苦にもされず…」そして、そのようなイエスさまは、民衆から見捨てられて、十字架に掛けられてしまいました。後の教会が主張する贖罪論や身代わりの死などということを、イエスさま自身意識しておられなかったと思います。ただイエスさまは、何があってもどのようなものであっても、それでもわたしたちは今生かされているということを神の国として語られてのではないかと思います。「神の国は見える形では来ない。ここにある、あそこにあるといえるものでもない。実に、神の国はあなたがたに間にあるのだ(ルカ17:20)」と。人々はそのように生き、死んだイエスさまを、ユダヤ教でいうメシア、救い主として理想化するようになったのではないでしょうか。イエスさまが死んで復活された後も、弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか(使徒1:6)」と尋ねています。しかし、イエスさまが十字架にかかろうとも、イエスさまが死者の中から復活されようとも、人々の生活は何も変わりませんでした。何も解決されなかったのです。いつもと同じように日が昇り、人々の苦しみは続いていく。そのような状況の中で、イエスさまが国を建て直し、正しくないものを裁くために再臨されるという期待が広まっていったのでしょう。しかし、それらは、すべてユダヤ教の終末思想の影響を受けた初代教会の勘違いから起こってきたものでした。イエスさまはそのようなことを生前考えておられませんでしたし、実際にイエスさまの再臨はありませんでした。

しかも後代になると、イエスさまの再臨、最後の審判というのは教会の教えとなっていきました。その再臨、最後の審判への備えとして、賢いおとめと愚かなおとめの寓話を説明するようになりました。そして、その裁きをわけるものが油をもっていたかどうかということになり、その油を聖霊と解釈する説が一般的となっていきます。聖霊はキリスト者のみに与えられたものとし、そのようにして救われるものと救われないものをわけ隔てていきました。キリスト者にしても、罪によって聖霊を失わないように、細心の努力をするようになり、非常に内向きな生き方になっていきました。

賢治は日蓮宗に帰依していきますが、その中で常不軽菩薩の姿に注目していきます。常不軽菩薩というのは、自分の救いを一切省みることなく、ただ他者の真の幸福と救いを誓い、他者の救いのためであれば、最後のひとりが救われるまで自分の救いを後回しにする、そのような菩薩として描かれています。また、いかなる誤解や批判を受けたとしても、仏を敬い続ける菩薩だそうです。日本の仏教の中にすでにそのような伝統があるのです。自分たちは聖霊を与えられたものとして、どこまでも自分を救われたものとして捉えていくユダヤの終末思想と何と異なっていることでしょうか。イエスさまがそのような陳腐な終末思想を説かれたはずがありません。人々の救いのために、自分の救いを最後に後回しにし、自分の救いを放棄された姿、人々が救われるまでは自分も救いに入らない、それがイエスさまの十字架だからです。  

パウロはガラテアの教会の人々に次のようにいいます。「ああ、物分かりの悪いガラテアの人たち、だれがあなたがたを惑わせたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか(3:1)」それほどのイエスさまの愛を見せていただいたのにもかかわらず、わたしたちは、まだ自分の業、おきての実行、自分の信仰の強さの程度に頼ろうとし、自分が油を準備しているかしていないかに拘り続けているのです。わたしたちは、今日の聖書の箇所から何を問われているのでしょうか。賢いおとめに倣って、将来、いつ主が来られてもよいように準備しておくことの大切さを強調することでしょうか。それだけなら、わざわざこんなたとえ話をする必要もなかったでしょう。また、わたしたちが自力でふさわしい準備をすることなど出来ませし、その心の状態を常に保てる保証もありません。

わたしたちが生きているのは、今というこのときをおいてありません。わたしが救われるのも、イエスさまが来られるのも、今というこのときをおいて他にはありません。イエスさまが来られること、救いを、将来、未来のことと考えるので、わたしたちは救いを将来のこととして捉え、救われるであろうわたしになろうという浅ましい根性が出てくるのです。このたとえでいおうとしていることは、イエスさまの到来、救いの現在性であるといえばよいでしょう。イエスさまはこのままのわたしを救うといわれるのです。救われるにふさわしい理想的なわたし、油を準備しているわたしを救われるのはありません。油があろうとなかろうと関係なく、今のわたしを救われます。今のわたしを訪れてくださるのです。イエスさまが救われるは、今のままのわたし、闇の中に沈み、泥にまみれた、罪に沈んでいるわたしなのです。わたしは、ただイエスさまにあわれんでいただくことしかない罪人なのです。慈しまれるだけでは足りません。あわれんでもらうことしかできない、そういう存在のわたしなのです。

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