主の降誕(日中のミサ) 勧めのことば
2023年12月25日 - サイト管理者主の降誕(日中のミサ)福音朗読 ヨハネ1章1~18節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
主の降誕の日中のミサにおいては、ヨハネ福音書の冒頭の箇所が朗読されます。聖書学的にはいろいろ議論がある箇所です。伝統的にこの箇所は、三位一体の第二の位格であるイエス・キリストの受肉以前のロゴスの先在を説明するものとして捉えられてきました。そして、その神的存在であるロゴスといわれることばが受肉するという出来事を、主の降誕の神秘として祝うというものでした。しかし、「はじめにことばがあった」というところを、救いの歴史におけるナザレのイエスとの出会いを中心にして捉えて、日本語では「はじめにことばがいた」と訳したらどうかという意見があります。日本語では「ある」は非人称的存在に使われ、「いる」は人格的存在に用いられます。ヨーロッパ言語では「ある」と「いる」の区別はありません。しかし、日本語で「ある」と「いる」は、単にものとひとの区別に使われているかというと、それほど簡単ではありません。ひと、動物以外のものであっても魂がこもっているものとか、動くものには「いる」を使っているようです。そう考えると「ことばがあった」というのは、神さまを全知全能の創造主、不動の動者として捉える意味ではいいかもしれませんが、わたしたちが神さまと呼んでいる方は決して不動の動者ではなく、もっといきいきとした、ダイナミックでいのちの根源でおられる御者です。その意味では、「ことばがいた」といっていいのではないかと思います。日本での最古の聖書であるギュツラフ訳では、「はじめにかしこいものござる」と訳されていることはよく知られているのではないでしょうか。そのことから今日は、ことばのもつ意味を、人間の言語という観点からお話ししてみたいと思います。
人間は言葉を話します。話すだけではなくて、書いたり読んだりもします。他の動物も彼らの独自の方法でお互いにコミュニケーションをとっています。最近の研究では、植物もお互いにコミュニケーションをとっているということがいわれています。多くの人々は、ことばは人間がお互いのコミュニケーションをとるために、人間が発明した道具だと思っているようです。確かにことばを使って、自分の思いや考えを他人に伝えるのという意味では、道具だといって間違いではありません。しかし、よく考えてみると自分の思いや考えをそのことばで表すことを誰が決めたのでしょうか。そもそも、わたしたちはいつ、どこでことばを覚えたのでしょうか。わたしたちは、まだ言葉を話す以前の子どものとき、言葉を話すことを両親や周りの人から教わりました。しかし、その言葉は親たちが自分で作って子どもに教えたわけではありません。彼らもまたその親たちから、またその親はその親たちから教わったはずです。それでは、その言葉というものはいつ、どこで、誰によって作られたのでしょうか。創世記によると、人祖が“もの”に名前を付けたということになっています。それでは、人祖が名前を付けるために、“もの”と名前が同じ意味であることを誰が決めたのかということになっていきます。それを神さまが決めたというのは簡単ですが、では神さまというものを“神さま”という言葉で呼ぶことは誰が決めたのかということになります。つまり、言葉には必ず意味があって、そのような言葉を誰が決めたのかは、実は誰もわからないということなのです。そのわからないものを神さまとか、創造主といったのでしょう。ですから、「はじめにことばがいた。ことばは神とともにいた。ことばは神であった」ということになったのではないでしょうか。
だから、言葉が万物を創造する力をもっているといっていいのだと思います。こうして、人間が言葉を話す前に、言葉-意味があったということだということがわかってきます。人間が言葉を話しているのではなく、言葉が人間を通して話しているといってもいいのではないでしょうか。それを神的言語といってもいいかもしれません。日本で昔、このことを理解した人たちは、言葉を大切にして「言霊」と表現しました。言葉がそのまま出来事になるという意味で、真(まこと)といわれ、その真を生きた人を命と書いて「みこと」と読ませました。ですから、イエスさまのことを「みこと」と呼んでもいいのかもしれません。言葉には、それが現実となっていく力があると考えたのです。ヘブライ語で言葉はダバールといわれ、出来事という意味があります。神の口から出ることばは、必ず出来事となるということに由来しているといわれています。しかし、これは神の言葉であるから、出来事になるのではなく、言葉そのものが出来事になる力をもっているということだと思います。その意味では、言葉というものが神であるとか、いのちそのものであるといっていいのだと思います。これはキリスト教の発明ではないのです。
実際、わたしたち人間は言葉を使うことなしには生きていくことはできません。すべてを言葉で考え、言葉で意味を理解し、言葉でコミュニケーションをとっています。そして、言葉には人のこころを動かす力があるのです。人を救うことができるのは言葉であって、その意味では言葉こそがいのちであるといっていいと思います。その代わりに言葉は人を傷つけもします。このように人間に意味を与え、人生を歩ませ、生きさせるのは言葉であるといっていいと思います。わたしたちは言葉なしには生きられませんが、同時に言葉によって惑わされ、苦しめられているのも事実です。人は嘘をつくとか、信じないとか、傷つけるとか人間の根本的なあり方にもとるようなことを、わたしたちは言葉によってやっているのです。そして、わたしたちは言葉の世界から、つまりこの迷いの世界から自分の力で出ることはできないのです。
その言葉によって迷い、傷つき、苦しんでいるわたしたち人間に、真実のことばが言葉となって語りかけるという出来事、それがイエス・キリストということなのです。ですから、この御者はことば、真理、いのち、光と呼ばれているのです。すべてのものを創り出す力であり、すべてにいのちを与えるいのちそのもの、すべてのものに遍く届く光、真実、まこと、みこと、真如、法などといろいろな名前で呼ばれています。この御者が人間となって迷いの世界に来られたこと、これが主の降誕の意味なのです。主の降誕は2000年前のベトレヘムでの出来事ではなく、イエスさまが、ことばがわたしとなった出来事なのです。イエスさまはこの世界で迷い続けているわたしとなって、この人生をともに彷徨ってくださるのです。この方の光によって、わたしたちが主の降誕の神秘の深みにいれていただけるように祈りましょう。