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教会からのお知らせ

年間第5主日 勧めのことば

2024年02月04日 - サイト管理者

年間第5主日 福音朗読 マルコ1章29~39節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、イエスさまの一日の生活がどのようなものであったかを知ることができる貴重な箇所です。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、『みんなが捜しています』と言った。イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」。これは、イエスさまの日々の生活のリズムが描かれているといってもいいわけです。つまり、朝早く起きて祈り、祈りから活動へ、そして活動から祈りへと向かわれるイエスさまの姿です。この祈りから活動へ、活動から祈りへというイエスさまの動きをみると、イエスさまの活動、つまりその教えや人々との関わりは、イエスさまの祈りから出ているということがわかります。それではイエスさまの祈りとは何かということは、イエスさまを知るための大きな鍵であるといってよいと思います。そこで、今日はイエスさまの祈りということをご一緒に考えてみたいと思います。

わたしたち人間が祈るということを考えると、特定の宗教をもっているか否かに関わらず、非常に自然なものであることに気づきます。自分の愛する人のために祈る、また苦しんでいる人々のために祈る、自分のためにも祈る、たとえそれがどれほど自分勝手なものであったとしても、わたしたちは悲しいときにも、苦しいときにも、嬉しいときにも、なんともないときも、自然と手を合わせたり、頭をさげたりという行動をしています。アウグスチヌスという方は、「祈りは魂の呼吸である」といったそうです。実は、祈りというものは、わたしたち人間にとって、とても自然なものであるということができるのではないでしょうか。それがあたかも呼吸のようであるという言葉で表現され、しかも呼吸であればそれは人間にとって不可欠なものであるということが出来ます。呼吸が止まれば死んでしまいます。そうすると祈りというものは、それをわたしたちが認めるか否かに関わらず、人間にとって非常に自然なものですが、同時に不可欠なものであるというふうにいうことができると思います。それでは、イエスさまにとって非常に自然であって、また不可欠なものといえばなんでしょうか。つまりイエスさまになくてはならないもの、本質は何かという問いになると思います。そうすると、イエスさまの本質は“愛すること”であるといえると思います。正確にいうと“愛”なのですが、愛をもっと正確にいうと”愛し愛されるという働き”であるといえると思います。

イエスさまは神さまですから、愛そのものでおられます。一瞬たりとも愛することなしにいることがおできにならない、それがイエスさまです。神さまの本質は愛ですから、愛でないということはあり得ないということなのです。愛であるということは、絶え間なく自分をすべて与えるということです。聖書の中でイエスさまのそのあり方は、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちを捧げるために来たのである(10:45)」と説明されています。つまり、自分のいのちを与えること、これがイエスさまの本質であるということなのです。また「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:13)」ともいわれています。そして、この愛の特徴は、相手の幸福を願うこと、常に他者に向かっていくということです。愛というものは常に自分を与えることしか知らない、常に自分を出て行くことしか知らないのが愛なのです。イエスさまは、その愛の本質を人間に明らかにするために「自分のいのちを救いたいと思うものは、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失うものはそれを救う(8:35)」と教えられました。普通わたしたち人間は、自分のいのちが一番で、そのいのちを救おうとします。しかし、まことのいのちは、自分のいのちを失うことによってしか得ることができない、自分を救いたいのであれば、人の救いを願うこと、自分の救いを後回しにして、自分のいのちを放棄することによってしか自分を救えないのであると教えられました。これが愛の本質のあり方です。

そして、その愛は無償の愛であるといわれていますが、正確に理解されていないところがあります。無償の愛といわれると一方通行の自己犠牲的な献身的な愛のことであると思われてしまいますが、愛というものは決して一方通行ではありません。まことの愛というものは愛するものと、愛されるものがいて初めて成立するものです。一方的な、上からの恵みのような愛ではなく、愛し愛されるものが愛なのです。愛はその愛を受け取る人がいて初めて成り立ちます。しかし、その愛は、愛してその愛を受け取って終わりではなく、今度は愛を受け取ったものが、同じように愛そうとするのです。そして、その愛は愛し愛されるものの間で絶え間のない循環となっていきます。その循環は往相(おうそう)と還相(げんそう)という形を取ります。つまり与えるという動きは一方から見れば与えると見えますが、他方から見ると受けとるというふうに見えます。同様に受けるという動きは一方から見ると受けると見えますが、他方から見ると与えるというふうに見えるのです。この愛の循環、ダイナミズムこそが、イエスさまが生きておられたものなのです。そこには、もはや他者のためにという利他も、自分のためにという自利もなくなっていきます。自他という区別もありません。自分が救われて幸せになるという自利も、人の救いのために働くという利他の区別がなくなるのが愛の世界です。ですから、イエスさまにおいては、生きることは愛すること、愛さないでは生きることができない、これが本来のいのちのあり方であり、祈りはそのいのちを生きることに他ならないといえるのではないでしょうか。

イエスさまが朝早く起きて、教会の祈りを唱えていたとか、念祷をしていたということではありません。もちろん詩編の祈りや沈黙の祈りに親しんでおられたでしょうが、イエスさまが朝早く起きて祈っておられたというのは、イエスさまはご自分がご自分であることを生きておられたということなのです。愛が愛であることを生きておられた。だから、そのことを人々との関わりの中で、ただ生き、実行されたということになります。この当たり前といえることが、わたしたち人間はいかに困難であるかをわたしたちは知っています。イエスさまと同じいのちを生きているわたしたちですが、イエスさまはわたしたちがそのいのちの本質を生きることがいかに困難であるかをご存じでした。だから、わたしたち人間のために模範を残されたのだということができると思います。それがイエスさまの祈りであるということなのです。ですから、わたしたちは今日もイエスさまのその祈りに、絶え間なく自己を出るという祈りに、わたしの小さな祈りを合わせる、イエスさまのお望みに、ご意志に乗せていただく祈りが大切なのです。わたしたちが祈るとき、わたしたちはこの小さな自分から出る練習をしているのです。つまり小さな自分を手放すのです。だから祈りというものは人間として絶対的に必要不可欠ですが、人間の本性には難しいのです。しかし、わたしたちが祈ろうとするとき、難しいことを考えるのではなく、わたしたちはイエスさまの愛の動きに乗せていただき、ただイエスさまの愛の動きに、いのちの還流に身を委ねさえすればよいのです。そのことを今日は味わってみたいと思います。

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