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教会からのお知らせ

年間第6主日 勧めのことば

2024年02月11日 - サイト管理者

年間第6主日 福音朗読 マルコ1章40~45節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は重い皮膚病を患っている人の癒しの箇所です。重い皮膚病という言葉は、1987年に新共同訳聖書が訳されたとき「らい病」と訳されました。その後1996年に「重い皮膚病」と改められました。2018年に改訳された聖書協会共同訳では「規定の病」と訳されました。この「規定の病」という意味は、レビ記13章に述べられている「ヘブライ語聖書に規定されている病」という意味です。ですからレビ記を読むと、旧約聖書が書かれた時代の世界観、人間観というものを知ることができます。当時の考え方は、世界を聖なる世界と汚れた世界にわけ、人間はその2つの世界の狭間にいて、できる限り「汚れ」から遠ざかり、清い状態に近づくことで、聖である神さまに近づくことができると考えられていました。日本の神道にも同じような考え方がありますが、聖書の世界にこのような差別、区別意識があったということを押さえておく必要があると思います。ですから、イエスさまが生きた時代のユダヤ教の根底に、このような差別、区別という考え方があり、それが当時の人々の生活や衛生感覚を支配していたということです。

 当時、規定の病に罹ったものは、レビ記13章によると「この病を発症したものは衣服を裂き、髪を垂らし…『汚れている。汚れている』と叫ばなければならない。その患部があるかぎり、その人は汚れている。宿営の外で、一人離れて住まなければならない(45~46)」とあります。このような病に罹ったものは共同体から追い出され、人々が自分に近づかないように大声で叫ばなければならず、通常人のいるところに近づくことはできず、家族から地域の共同体から、もちろんユダヤ教の礼拝の場からも排除されました。その苦しみは、病からくる肉体的な苦しみだけではなく、家族や共同体、もっとも助けが必要な宗教からも、救いからも除外されているという精神的な苦しみの方が大きかったのではないでしょうか。そのような状況におかれていた人に、イエスさまは「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」られます。ユダヤ教としての最大の禁忌を犯すわけです。この人は病気に罹ってから、人に触れられるのはおそらく初めてだったでしょう。いくら親子、家族ですらその人に触れることは、自分も汚れるとして律法から厳しく禁じられていました。しかし、イエスさまはその人に触れられるのです。それはイエスさまのその人への「深い憐れみ」からであったと描かれています。他の聖書の写本では「怒って」となっているものもあります。イエスさまの憐れみと怒りというと一見矛盾するようなことばですが、人間が、それも宗教という名において「聖」と「汚れ」というものでものごとを分け隔てている社会の現実への悲しみ、怒りが感じられる箇所ではないでしょうか。

創世記では、この世界は神さまによって創られ、「よし」とされました。これが本来の聖書の価値観であったはずです。それが、人間の健康を守るという観点から、衛生概念を清浄規定として宗教に組み込んでしまった人間のどうすることも出来ない闇へというものがあったのではないでしょうか。わたしたちとて例外ではありません。わたしたちはすべてのものごとを分け隔てて理解し、認識しようとします。善悪、生死、自他、大小、老若、男女、上下、内外、真偽、優劣、賢愚、敵味方等、わたしたちの世界は反対語で成り立っているといっていいほど、この差別、区別の世界になってしまっています。教会でも信者「未信者」、内陣会衆席、聖職者信徒等々、上げればきりがありません。つまり、わたしたちの世界は、ものごとを分け隔てることによって成り立っているのです。というかわたしたちは、ものごとを理解し認識していくときに、ものごとを分け隔てて、夫々に名前を付けて規定し、それを“よし”と“あし”として捉えることしかできなくなっているのです。これが人間の内的構造の本質にあることでもあるのです。すべてのものに垣根を作ってしまうということです。誰も病気になってよかったという人はいません。病気に罹ったら残念だといい、病気がよくなったらよかったといいます。このように、人間は、病気は悪、健康は善、病気になることは不幸で、健康なことは幸せとしか捉えることができないのです。

日本人が初詣やいろいろな神社仏閣を参拝したときには、誰しもが家内安全、健康長寿、大願成就を祈ります。キリスト教ではそのような現世利益はいけないといいながら、病気に罹れば治りますようにと祈りますし、少しでも病気をしないで長生きできように、仕事や使徒職がうまくいくように祈っているわけです。いうなれば同じことをしているわけです。それで、わたしたちは、現世利益の宗教ではありませんといっているのです。どこが違うのでしょうか。イエスさまが問題とされたことは、宗教という名のもとに差別、区別を作り出している社会構造への怒り、その被害者となっているものへの深い憐れみ、翻っていえば、差別、区別という垣根を作り出すことによってしか生きられない人間存在そのものに対する深い痛み悲しみがあったのではないかと思われます。このものごとを分け隔てていく、垣根を作り出していくという人間の根源的なあり方が人間の闘い、争いを生み出しているものに他なりません。それなのに、それをよしとしている、しかも宗教という名においてそれを肯定している、そのことへのイエスさまの怒りと悲しみが今日の福音の中に見られるのではないでしょうか。これはどの宗教も変わりません。カトリック教会であっても同じことです。洗礼を受けた人と受けていない人、聖人と罪人、聖職者と信徒等、その制度自体の中に垣根を作り出していることには変わりはないのです。その制度がなければ教会自体が成り立たない、しかし、そのことが当然になっていて、痛み悲しみ、問題意識がない。それが、「深く憐れんで」というイエスさまの言葉の中に込められた思いなのではないでしょうか。

イエスさまがこの世に現れたのは、神の国を告げ知らせるためでした。神の国は、この人間の差別、分別が絶えた世界、すべての垣根がなくなった世界です。人間は生まれたときには、この差別、分別を知りません。ベトレヘムの幼子は、その垣根がなくなった姿なのです。イエスさまの方から、わたしたちを隔てている垣根は初めからありません。垣根を作っているのはわたしたち人間の方で、イエスさまは少しも垣根を作っておられない。イエスさまの中には、病気の人、病気でない人、汚れた人、聖なる人といった垣根がないのです。イエスさまはありのままのわたしを初めから知り尽くして、わたしに向かって来られるのです。信仰というと、何かわたしが向こう側におられる聖なるイエスさまを信じることで、イエスさまに繋がることだと考えている人たちがいます。それだけなら、わたしはイエスさまとの間に垣根を作っているだけで、イエスさまをまだ疑っているのです。そうではなく、イエスさまはわたしが作っている垣根をもろともせずに、向こうから垣根を超えてやって来られるのです。イエスさまからしたら、垣根などもともとないのです。わたしのところに来られるのはイエスさまです。わたしが行くのではありません。わたしのところに来られるイエスさまに来ていただく、それがまことの信仰です。今日はそのことを知らせていただいたのです。そして、そのことをイエスさまは貧しい人は幸いといわれたのです。人間の貧困や飢え、病がよいことだといわれたのではなく、主にのみより頼む人は幸いであるといわれたのです。

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