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教会からのお知らせ

四旬節第3主日 勧めのことば

2024年03月03日 - サイト管理者

四旬節第3主日 福音朗読 ヨハネ2章13~25節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまのエルサレムの神殿の清めの物語です。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では、エルサレムの神殿の清めの出来事は、イエスさまの宣教活動の終わりごろ、エルサレム入城後の出来事として描かれています。しかし、ヨハネは宣教活動の始めの出来事として描かれます。いずれにしても、イエスさまのエルサレムの神殿への嘆き、ユダヤ教の信仰形態への問題提起ということがテーマになっています。どうようなことでしょうか。そのことを今日は考えてみたいと思います。

当時のエルサレムの神殿は、ユダヤ人たちの信仰の最大の拠り所でした。エジプトからの解放を記念する過越祭、シナイ山での律法授与を記念する七旬祭、荒野の彷徨を記念する仮庵祭の年3つの大祭にはエルサレムへ巡礼し、そこで生け贄を捧げることが大切な信仰行為でした。特に過越祭は3つの大祭の中でもっとも重要で、自分たちの祖先が神の導きによって、奴隷であったエジプトの家から紅海を渡って解放されたという、ユダヤ人の民族的アイデンティティに直結する大切な祭りでした。ですから過越祭のときは、多くのユダヤ人がエルサレムに巡礼し、町はごった返していました。そして、神殿で生け贄をささげ、献金をすることは、ユダヤ人にとっては大切な信仰の表現であったわけです。お稲荷さんにお参りにいって、ろうそくをあげて、油揚げを捧げて、お賽銭を投げるようなものです。

しかし、そこにはいくつか問題がありました。先ず生け贄にする牛や羊、鳩(これは家族の経済状況によって違っていたわけですが)を、家から連れてくるのは大変なことでした。何日もかかってエルサレムに巡礼してくるわけですから、その旅に牛や羊を連れてくることは大変な手間がかかることでした。また、エルサレムの神殿でお賽銭をあげるわけですが、当時のユダヤではローマの貨幣が使われていましたが、異教の貨幣は不浄であるとして、神殿用の貨幣を使わなければなりませんでした。神殿用の貨幣は普段は使いませんから、それを両替する必要があったわけです。ですから、エルサレムの神殿の境内には、生け贄の動物を売るお店や、神殿用の貨幣に両替するお店が軒を並べていたわけです。伏見のお稲荷さんにお参りにいくと、参道にろうそくや油揚げを売っているお店がたくさんあります。それは、信者さんの便宜をはかったもので当然のことだといえるでしょう。

しかし、イエスさまはそれらをひっくり返し、商売をするものを追い出されたわけですから、何をするんだということになるわけです。「このようなものはここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家にしてはならない」。ここでイエスさまが問題にされたのは、まことの礼拝とは何か、まことの信仰とは何かということだったと思います。当時のユダヤ人は、エルサレムの神殿に巡礼し、いわゆる本山詣でをし、生け贄をささげ、献金をすることが、自分たちの信仰の熱意を表すことだと考えていました。わたしたちも、何かそのようなことをしている人たちを見ると、あの人は信仰に熱心な人だというのと同じです。日本でもあの人は信仰が強いとか、熱心だといういい方がなされますが、それは何を意味しているでしょうか。多くの場合、信徒歴が長いとか、毎週欠かさずミサに出席しているとか、特別な信心をしているとか、たくさん献金をして、一生懸命慈善活動とかボランティアをしているとか、そのような人が信仰が篤いといわれがちなのではないでしょうか。また、成人洗礼より、幼児洗礼の方が、信仰経験があって信仰深いといわれがちです。しかし、多くの場合、わたしたちが何かをしているということで、信仰が強くなるということはありません。むしろ、単に我が強くなり、信仰上も自信満々になっているだけであって、信仰が強くなるということと自分の意志、根性が強くなることと混同しているだけではないでしょうか。ところが、多くの人は自分の意志が強くなることが、信仰が強くなることとだと考えてそれを願っています。それは、大きな勘違い、錯覚であるといえるでしょう。

わたしたちのこころが強くなることを願えば、かえって我が強くなっていくだけで、イエスさまを信じているといいながらも、むしろ自分の外的、内的な成功や成長を願うことになってしまいます。イエスさまに強められるということは、イエスさまへの信頼が強くなり、何があっても何がなくても揺るがないでいられる、自分の幸不幸、如意不如意、成功不成功などに執着しないで、信頼のうちに平和でいられるということではないでしょうか。詩編51に「あなたはいけにえを望まれず、燔祭をささげても喜ばれない。神よ、わたしのささげものは打ち砕かれたこころ。あなたは悔い改めるこころを見捨てられない」とあります。ここで、「わたしのささげものは打ち砕かれたこころ」「悔い改めたこころ」といわれているこころとは、自分のことに囚われない、自由な、偏りのないこころを指していると思われます。多くの人は悔い改めるこころというと、何か悪いこころをよいこころにすることだと思っています。しかし、自分のこころをよくするとか、そのようなことに囚われ、自分に拘っているわたしのこころ、我執が問題なのです。それを、自分のこころを強くすることを信仰だと思い込んでいるのです。

当時のユダヤ人たちは、自分たちはきちんと信仰生活をしている、本山詣でもし、生け贄をささげて、献金もしている、自分はきちんと信仰生活している。だから神さまは当然わたしを受け入れて、恵みを与えられ、災いから守ってくださるはずだと考えていました。わたしが一生懸命祈れば、わたしが一生懸命信仰すれば、わたしが一生懸命努力すれば、神さまはわたしたちの願いをかなえてくださると考えていたわけです。しかし、そんなわたしの自分勝手な都合で神さまを動かそうとすること自体が的外れであり、それは信仰ではないのです。イエスさまは、そのような人びとの信仰形態に問題提起をされたということだと思います。

わたしのささげものは、“打ち砕かれたこころ”、つまり自分の思い、自分の計画、我意が打ち砕かれたこころ、自分に絶望したところから生まれてくる神への信頼なのです。わたしの何かを満たし、わたしの何かがかなえられるための信仰であれば、それは自分の都合を延長し、自分のエゴを神さまに押し付けているだけに他なりません。そもそも、わたしの信仰などありえないのです。イエスさまは、別の箇所で、まことの礼拝とは、霊と真理をもって礼拝することだといわれました(4:23,24)。つまり、まことの礼拝、信仰とはイエスさまの霊と真理をもつことなのです。イエスさまの霊と真理をもつとは、サマリア人の女との出会いの箇所でイエスさまが話されたことなのですが、結局はイエスさまがこのサマリア人の女との出会いと救いに飢え渇いておられたということに、彼女が気づかされたということなのです。

わたしたちは、いろいろな動機で教会に来るでしょうが、それがたとえどんなに自分勝手で、現世利益的な動機であったとしても、また崇高な思いや、まことや救いを求めてであったとしても、そのようなわたしの願いよりはるかに超えたところで、わたしたちのすべてを包み込んで、わたしとの出会いに受け渇いておられたということなのです。そのことを救いの真実(真理)といい、そのイエスさまのわたしへの救いの願い、思い、こころ(霊)がわたしたちに届けられていることを信仰というのです。ですから、そのイエスさまの救いの真実と願いを聞くことが、わたしたちの信仰なのです。わたしが信じて、イエスさまに何かをしてもらうことではありません。わたしを救い取って捨てないと仰っている方の願い、その真実を聞くことが即信仰となるとのです。パウロも「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストのことばを聞くことによって始まるのです(ロマ10:17)」といいました。ですから、わたしたちは、“わたしを救う”といわれたイエスさまのことば、イエスさまの真実と願いを聞くことなしに、信仰はあり得ないのです。

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