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教会からのお知らせ

四旬節第4主日 勧めのことば

2024年03月10日 - サイト管理者

四旬節第4主日 福音朗読 ヨハネ3章14~21節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日のヨハネ福音書の箇所は、イエスさまとファリサイ派のニコデモとの対話で、福音の核心ともいうべき箇所が朗読されます。「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである(3:16)」。ここに、イエスさまの福音のすべてが要約されているといっていいでしょう。

ここで、まず注目すべきことは、「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された」といわれていることです。「独り子を世に与えた」、「世を愛された」ということは、ナザレのイエスという人物において実現した歴史的事実を指しています。その歴史的事実とは、ナザレのイエスという方が、わたしたち人間とまったく同じように、生まれ、成長し、生きて、悩んで、苦しんで、死んだという具体的なひとりの人間の人生を意味しています。しかし、その出来事は、単に過去の出来事として終わってしまったことではなくて、わたしたちが生きている今現在においても続いている普遍的な真理として述べられているのです。確かにイエスさまが、この地上にいらして人間として生き、ご自分のいのちを十字架上で全人類のためにお与えになったことは、2千年前の歴史的事実です。しかし、そのイエスさまの人生は、復活という出来事によって、現在、過去、未来にわたって、人間の相対的な時間を超えて、永遠の真実としてすべての人に及んでいるということなのです。つまり、イエスさまにおいて自分を与えるという救いの出来事は、イエスさまの復活によって、永遠における真実として啓示されたということです。2千年前の十字架と復活という出来事によって、救いが永遠のものとなったというより、すでに永遠であった救いの真実が、イエス・キリストという出来事によって顕かにされたということでしょう。そして、その目的が、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るため、救われるためである」といわれています。つまり、イエスさまがこの世界に来られた目的は、わたしたち全人類の救いであるということなのです。わたしたちにとっては、何度も聞かされ当たり前のことかもしれませんが、これこそがイエスさまの願い、悲願であると言ったらいいでしょう。ひとりとして救われない人がいる限り、イエスさまの願いは果たされないということなのです。わたしが、救われたいと願うはるか以前に、すでにイエスさまによって起こされた永遠の願いであるということなのです。その救いの真実が示されました。

しかし、ここでひとつの問題が出てきます。「独り子を信じるものが」ということが、あたかも条件であるかのように述べられています。しかし、イエスさまを信じることが、永遠のいのちを得、救われるための条件であるとか、信じない者を排除したりしているのではないということです。イエスさまの救いは、すべての人を分け隔てなく救うことです。そもそも、救いに条件があるとか、救われたものと救われていないものがあるという隔てがないことが真実の救いです。ですから、「独り子を信じるものが」というのは、イエスさまを信じることを条件としているのではなく、イエスさまはすべての人を漏れなく救われるという真実を信じるようにという呼びかけであると捉えることができるのではないでしょうか。わたしたち人間はイエスさまを信じるといいながら、結局は自分に都合よく、自分勝手に信じている。そして、何かあるとすぐ信仰が揺らいでしまうわたしたちです。そのようなわたしたちが、そもそもイエスさまを一心に信じるということが可能なのかということが問われているのです。つまり、イエスさまを信じないということは他人事ではなく、わたしの問題として捉えなさい、ということだと思います。わたしたちが、自分のことを振り返ってみるとすぐ分かることですが、自分に都合よく信じてみたり、こんなに頑張っていますといってイエスさまと駆け引きをしてみたり、何か大変なことがあると信仰が直ぐに揺らいでしまう。また、人を心から信じることができない、そうした己の現実を見たとき、こんなに勝手なわたしであるのにもかかわらず、わたしたちをひとりとして漏らすことなく救おうとされるイエスさまの願いに気づかせていただくことが信仰であるといえるのではないでしょうか。

ですから、ここでいわれている「信じる」ということは、「信じない人たち」のことを排除するという意味ではなく、そこまでして全ての人類を救おうとされるイエスさまの願い、悲願の広さ、高さ、深さを指しているのだといえるでしょう。イエスさまが、自分のことを信じる人は救うが、信じない人は救わないといった、そのような了見の狭いことをいわれていると考えること自体不可能です。勿論、洗礼の有無に関わりなく、信じる、信じないに関係なく、全人類を一人も漏らすことなく救い取らずにはいられない、イエスさまの願いを述べているのだといえるでしょう。こうして、今日の第2朗読で、わたしたち人類が救われたのは、「自らの力によってではなく、神の賜物です。(わたしたちの)行いによるのではありません」といわれることが明らかにされていきます。これが、イエスさまの救いの真実であり、わたしたちに賜っている信仰なのです。このイエスさまから賜った信仰をそのままいただくことが、わたしが信じるということなのです。

イエスさまの救いのみ業は、このようにすでに永遠において成就しているわけです。イエスさまの十字架と復活によって、全人類はひとりとして余すことなく救われていくことが示されました。イエスさまを信じる者だけが救われるというのではなく、救われがたい、このわたしをも余すことなく救うというイエスさまの願いを聞くこと、それがイエスさまを信じるということなのだということが明らかにされたのです。そもそも、信仰は、わたしたちのこころの持ち方や精神論ではありません。つまり、わたしの努力や自分の力ではなく、イエスさまからわたしたちに届いているひとり残らず救うという救いの願いが、わたしのこころの中で信仰として呼び起こされているのだといったらいいでしょう。信仰とは、全ての人を救いたいというイエスさまの願いが、呼びかけとしてわたしのうちに届き、その絶対的な呼びかけが聞こえたということが真の信仰に他なりません。だから、わたしが自力で信じるのではなく、信じること自体が恵み、神の賜物なのです。信仰は、わたしたちがイエスさまにご加護を願ったり、自分の身勝手な欲望をかなえてもらったりするというような信心ではなく、また自分の力で頑張るとか、自分の根性で強くするような信念でもありません。わたしたちがイエスさまと出会うとき、いつもそのような自分の思いから一歩も出られない、わたしたちの根本的なあり方に気づかされます。その己の姿にもかかわらず、イエスさまの救いの願いに気づかされるとき、「ああ~そうであったのか」と、わたしたちは信仰をいただくのです。これが永遠のいのちを生きるということなのです。

ですから裁きというものも、イエスさまがわたしたちを裁かれるのではありません。わたしが自分の思いで、救われるだろうか、救われないだろうかと算段したり、また同じように他の人のことも判断する、これがイエスさまの救いの真実を疑うということであり、これがわたしたちの迷い、闇の中にいるということなのです。しかし、そのような闇の中にあってもわたしたちは光に包まれています。西洋では闇は光の欠如として説明されますが、そうではなく闇こそが光の実在を証しし、その闇の中に光が届いていることこそが救いなのだといったらいいでしょう。「光は暗闇の中で輝いている(1:5)」といわれています。わたしたちが光を意識するのは、昼間ではなく漆黒の闇においてです。わたしたちの苦しい、また困難の多い、罪深い人生のただ中に、イエスさまが光としておられることこそが、わたしたちがイエスさまによって救い取られているという真実に他ならないのです。

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