四旬節第5主日 勧めのことば
2024年03月17日 - サイト管理者四旬節第5主日 福音朗読 ヨハネ12章20~33節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音の中でイエスさまは「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきりいっておく。ひと粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」といわれました。栄光というのは、その人がもっともその人らしく輝くときのことをいっています。人の子、つまりイエスさまがもっとも自分らしくなる時が来たといわれたのです。そのたとえとして、「ひと粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」と教えられました。わたしたちは、このたとえを、一粒の麦はそのまま取っておいたらひと粒のままであるが、これが蒔かれて地に落ちると、そのひと粒の麦は失われるが、そこから芽が出て多くの実を結ぶようになるというふうに捉えています。しかし、そこでいわれている意味はもっと深いものがあるように思います。つまり、一粒の麦は取っておかれたらそのままだけれど、地にまかれたら多くの実を結ぶということだけのたとえなら、それは当たり前のことをいっているだけであり、普通の自然現象を現しているのに過ぎません。しかし、「死ねば多くの実を結ぶ」という意味を、もっと根本的に捉えることができるのではないかと思います。つまり、これは単なる種まきの話ではなく、一粒の麦が地に落ちて死ねばという意味は、種もみの形態が失われて芽が出て麦になろうが、種がそのまま腐って地の肥やしになろうが、いろいろな意味で、ある存在様式が失われることによって、多くのいのちを養い、新しいいのちとなるといういのちの姿を意味していると捉えることができるのではないかと思います。
今、NHKの大河ドラマで京都の鳥辺野という地名が出てきましたが、鳥辺野は古来、京都の人々の鳥葬、風葬の地でした。日本の仏教美術の中に九相図(くそうず)というものがあります。それは、嵯峨天皇の后であった橘嘉智子が仏教に深く帰依して、自分が死んだあと皇族として葬るのではなく、自分の遺体を道端に放置して、鳥や獣に与えるようにと遺言したという話に由来します。自分の体を鳥や獣の飢えを救うため餌として与え、この世のありとあらゆるものは移り変わり永遠なるものはひとつも無いという「諸行無常」の真理を、自らの身をもって示して、人々に菩提心を呼び起こさせるためであったといわれています。そして、遺体は道端に放置され、その遺体は腐乱して蠅がたかり蛆がわき、鳥や獣に食べられて、白骨化していく様子を人々に示し、またそれを絵師に描かせたものが九相図というものです。いろいろな九相図がありますが、イエスさまの「一粒の麦」のたとえ、また「自分のいのちを愛するものはそれを失うが、この世で自分のいのちを憎むものは(失うものは)、それを保って永遠のいのちに至る」といわれたことばと相通ずるものがあるように思います。たとえ自分の肉体は滅びても、そのいのちは他のいのちに受け継がれていく、もっと大きないのちへとひとつになっていくということではないでしょうか。
人間は霊長類として食物連鎖の頂点に君臨し、ありとあらゆるいのちを、自分のいのちを保つために摂取してきました。そのためであれば、あらゆる動植物を乱獲し、そのためであれば他の人間のいのちを殺めることさえも厭いません。食物連鎖の頂点に君臨し、あらゆるいのちの王であるようにふるまっているのが人間です。仏教に深く帰依した橘嘉智子は、そのような人間の業とういうものに深く思いをいたし、せめて自分が亡くなった後、そのからだを他の生き物のための食料として与えることによって、他の人々にいのちの大切さ(菩提心)、いのちの真実を説こうとしたのではないでしょうか。人間だけが、すべての生き物を利用し、食料として摂取していきますが、人間は他の生き物の何の役にもたっていません。遺体は大切に埋葬され、カトリック教会であれば、聖人ともなればその遺体を切り刻んで聖遺物として崇められます。からだの復活を教義としている、もちろんそうかもしれませんが、それは人体の復活ではありません。そう考えると、自然界の中で人間とは何と自分勝手で、自分たち人間のことしか考えていない愚かな存在なのでしょうか。せめて、からだを土に返して、他のいのちを養うための栄養となることさえしようとしないのです。
藤原新也という写真家の「メメント・モリ」という写真集があるのですが、そのなかで、ガンジス川で水葬された遺体を食べている野犬を撮った写真があります。グロテスクといえばそうですが、これこそイエスさまが自分のいのちを他に与えようとした行為に他なりません。わたしたち人間にとって、死はわたしたちの人生を揺るがす一大事です。しかし、わたしたちはその死ぬというプロセスを通して、与えられたいのちを生きるのだということをイエスさまはご自身をもって教えてくださったのではないでしょうか。死は生の反対語ではなく、いのちには生も死もなく、いのちのひとつの流れの中に生があり、死があるということなのではないでしょうか。そして、イエスさまはそのいのちの諸相の中で、死がもっともいのちがいのちらしくなる、つまり自分を壊してそのいのちを他に与えようとするとき、それを栄光のときとして示されたのです。死というものは人間にとって動揺であり、苦しみ、心騒ぐときであることに変わりはありません。しかし、死は人間にとって、もっとも人間らしいことなのでということを語っておられるのです。死も、大きないのちの営みの中にあること、すべてはイエスさまのみ手の中にあることを教えてくださったのだといえるでしょう。そして、そのことをわたしたちは、生きてある今、このときに知らせていただいているのです。このことは、生きている今にしか聞かせていただくことはできません。死んでしまえば聞くことはできません。生きている今こそ、いのちの意味を聞かせていただくときなのです。
聖週間をまじかに迎えようとしているわたしたちに、わたしの小さな思いや思惑を突き抜けて、わたしのいのちの全体が、途方もなく大きなイエスさまのいのちの計らいに支えられ、抱かれているという真実を味わわせていただきたいと思います。