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教会からのお知らせ

[聖なる過越しの3日間]主の晩餐の夕べのミサ 勧めのことば

2024年03月28日 - サイト管理者

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

[聖なる過越しの3日間]

聖週間の「聖なる過越しの3日間」は、1年間の典礼暦の頂点です。この「過越しの3日間は、主の晩餐の夕べのミサから始まり、その中心を復活徹夜祭におき、復活の主日の『晩の祈り』で閉じる」と典礼総則に記されています。この説明から分かるように、この「3日間」は、イエスさまの受難、死、復活を時間をかけて、ひとつの流れとして体験し、味わっていくことにあります。

主の晩餐の夕べのミサ ヨハネ13章1~15節

主の晩餐の夕べのミサと翌日の金曜日に行われる主の受難の祭儀は、本質的に同じことを記念しています。木曜日は主の晩餐ということで、わたしたちの食べ物となって、パンとしてご自分のいのちを人類の救いのために与えられたことを記念します。翌日の主の受難の祭儀では、イエスさまが十字架の上で、実際にご自分のいのちを全人類の救いのためにお与えになったことを記念します。今日、主の晩餐の夕べのミサで読まれるのは、ヨハネ福音書の箇所で、イエスさまが弟子たちの足を洗われる場面が朗読されます。共観福音書にみられるような、聖体の制定の箇所ではありません。それもわざわざ、「過越祭の前のことである」ということで、ヨハネ福音書に描かれる食事は、過越祭の食事ではなく、前日の弟子たちとの別れの食事であったことが強調されています。そうすることで、イエスさまの十字架を「真の過越しの生贄の子羊」として描こうという意図があったと思われます。どうしてでしょうか。ヨハネ福音書が書かれた紀元90年代は、当然のように教会の中で典礼としての聖体祭儀が行われていました。しかし、ヨハネ福音書は共観福音書にある聖体の制定の箇所を省き、イエスさまの洗足の話をもってきていました。それは、イエスさまによって制定されたミサという儀式よりも、ミサの本質を問わなければならない必要があったからです。

実は、ヨハネの教会の中でも、すでにいろいろの問題がありました。パウロも当時の教会の中で、派閥争い、勢力争いが絶えなかったことを書いています。「あなたがたの間で仲間割れがあると聞いています…それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならないのです(Ⅰコリ11:18~20)」。また、古代のある教父は、「主の晩餐に与りながら、貧しい人のことを考えないなら、主の晩餐に与ったことになりません」ということばを残しています。さらに、パウロは激しい口調で「主の体のことをわきまえずに飲み食いするものは(聖体拝領すること)、自分に対する裁きを飲み食いしているのです(11:29)」、といって、当時の人々のあり方を厳しく批判しています。つまりミサを行いながら、それとまったく違った生き方をしていたということです。イエスさまが聖体の秘跡を制定されたのは、イエスさまのこころを残すためであって、ミサという儀式や荘厳な典礼形式を残すためではありません。また、わたしたちが聖体拝領するためでもありません。ヨハネ福音書が、イエスさまによる聖体の制定についての記述を省いたのは、聖体を軽視したのではなく、聖体を聖体たらしめるもの、つまりミサの本当の意味を共同体に再確認してほしいという思いが強くあったからだといえるでしょう。キリストの体とは、いわゆる「ご聖体」のことをいうのではなく、キリストのいのちを生きるキリスト者の共同体自体であり、聖体は教会の生き方そのものであることを思い起こさせるためだったということです。

イエスさまは洗足の場面で、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない(13:14)」といわれました。そのイエスさまのことばは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である(13:34)」といわれたイエスさまの新しい掟と同じ意味です。この「わたしがあなたがたを愛した」、「わたしがあなたがたの足を洗った」といわれていることが、イエスさまが人生とその死をかけてわたしたちに示されたいのちの真実です。イエスさまは全世界の人々を、ひとりとして漏らすことなく救い、十字架に付けられる側の人も、十字架に付ける側の人も、ともに救われていく世界を願って神の国を始められたのです。しかし、わたしたちの現実はどうでしょうか。日々、些細な争いや妬み、憎しみ、党派争いが絶えることはありません。ヨハネの共同体は同じ問題を抱えていました。しかし、それでも平気でミサがおこなわれていたということです。それなりの善意の人たちの集まりでしたが、そこに争いや妬みがうごめいていました。わたしたちも同じではないでしょうか。わたしたちキリスト者はどうしても、自分たちは善意で、自分こそが正しいと思ってしまっています。わたしたちは悪人ではない、誰かを十字架に付けるようなことは絶対しない、という信念をもって生活しています。誰かを十字架に付ける側の罪人にわたしは絶対にならないと思っているのです。

今、世界でいろいろな紛争が起こっていますが、もしわたしがその国に生まれていたならば、それは他人ごとではなかったはずです。わたしは否応なくその現実に巻き込まれ、殺す側にも殺される側にもなっていたのです。今、わたしたちが殺す側に立たないでいられるのは、たまたまわたしがそのような状況にいなかったからであって、状況が変われば、わたしは殺す側にも殺される側にもなってしまうのです。わたしがキリスト者で、今そのような立場にいないのは、たまたまそのような環境に生まれなかったのにすぎないのです。それなのに、わたしたちは常に被害者側の立場に立ってものをいう、そこにわたしたち人間のもつ業、闇の深さを感じさせられます。人間は状況が変われば、十字架に付ける側にも、付けられる側にもなる、殺す側にも、殺される側にもなるということに思いが至らないのです。教会は常に自分たちは絶対正義で、正義と倫理の擁護者、番人であるかのように振舞っています。

イエスさまがわたしたちに残されたのは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」という新しい掟、相互愛の掟です。イエスさまはもはや、心を尽くして、思いを尽くして、神を愛し、隣人を愛しなさいとは教えらません。わたしが、自力で神を愛し、隣人を愛するというような思い上がりを捨てなさいといわれたのです。わたしたちは皆お互い様であって、足を洗う側にも足を洗われる側にもなる、だからお互いに足を洗い合いなさいといわれたのです。もっと謙虚になりなさいということなのです。わたしは、いつも足を洗う側、奉仕する側だという思い上がりは、イエスさまの中には微塵もありません。イエスさまが愛するといわれるとき、敵味方、加害者被害者、善人悪人、聖人罪人の区別や差別はないのです。いろいろ困難な状況の中であっても、お互いに足を洗い合い、ゆるし合い、仕え合うこと、それが相互愛であり、イエスさま自身がその身をもって模範を残してくださいました。それなのに、たとえそれがよいことであったとしても、わたしたちは自分を絶対正義だと思い込んでいるのではないでしょうか。そのような思い込み、自分にしがみついているわたしたちが問題なのです。そのようなわたしたちにとって、形式だけのミサ、聖体拝領に何の意味があるのか、ヨハネはそのことを問題にしたのです。

わたしが自分の正義を肯定し、自分のやり方を肯定するためのミサであれば、どんなに荘厳で美しい典礼であっても、何回聖体拝領しても、わたしたちは何も変わらないのです。わたしたちのなかに、絶対といえるものは何もないのです。だから、お互いに足を洗い合わなければならないのです。相手の足を洗うだけでは足らないのです。足を洗ってもらわなければならないのは、このわたしなのです。だから、互いに足を洗い合うのです。

聖木曜日に、形だけの洗足式をおこなっても意味がありません。今日、わたしたちは、人類のために、このわたしのためにいのちをかけてご自分を与え尽くされたことを、イエスさまのミサの制定として記念します。古代教父の「あなたがたは、ミサで記念しているものとなりなさい」という、呼びかけを今一度、謙虚に心に留めたいと思います。

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