information

教会からのお知らせ

主の受難 勧めのことば

2024年03月29日 - サイト管理者

主の受難 ヨハネ18章1節~19章42節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は、昨日の主の晩餐の夕べのミサで記念されたことを、イエスさまが実際に自分の身をもって生きられたことを記念します。つまり、イエスさまが晩餐の夕べのミサの中で、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさいと(ヨハネ13:34)」といって、相互愛の新しい掟をお与えになるにあたって、イエスさまがどのようにわたしたちを愛されたかを見るわけです。その愛し方は、敵味方、加害者被害者、善人悪人、聖人罪人の区別なく、すべての人々のために、ご自分の体を裂いて、血を流して、自分のいのちを与え尽くすこと、十字架につけられるものになることでした。多くのことを説明する必要はないと思います。イエスさまが、「わたしがあなたがたを愛したように」といわれたその愛し方が、十字架であるということです。

それでは、わたしたちが、実際に新しい相互愛の掟を実践できるのかといえば、「はい、できます」とは誰もいえないでしょう。「できます」といえる人がいるとしたら、その人は嘘つきです。なぜなら、人間は誰もイエスさまの愛を完全に理解し、実践することは不可能だからです。結局は、自分が可愛い、自分の幸福や利益を求め、自分の世界から一歩も出られないわたしというのが現実だからです。しかし、ただ「わたしたちが愛を知ったのは、あの方がわたしたちのために自分のいのちを捨ててくださった(ⅰヨハネ3:16)」からですと、ヨハネが手紙の中で書いているように、イエスさまの十字架によって、人の知恵をはるかに超えた、イエスさまの「愛の広さ、長さ、高さ、深さ(エフェソ3:18)」を垣間見させてくださいました。

仏教では、人間の愛はどこまでいっても小さな愛、小悲であるといいます。人知を超えた方だけが、真の大悲、大慈悲といわれる愛そのものであって、死ぬことの真の意味をわたしたちに知らせてくださいます。わたしたちは、そのイエスさまの愛に触れることによってのみ、「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています(Ⅰヨハネ4:16)」といわれる真実の信仰がわたしたちの内に、イエスさまの側から呼び覚まされてくるのではないでしょうか。

実は、キリスト者であるわたしたちは、イエスさまについて何も知らないのです。わたしの信仰は、わたしのものではありません。わたしの信仰と呼んでいるものは、単なる自分の身勝手な思い込みでしかなかったことが、イエスさまの十字架を見つめるときに明らかにされるのではないでしょうか。信仰はわたしの信仰ではなく、イエスさまの願い、イエスさの真実がわたしのなかで引き起こさせた信仰であり、わたしが愛するとしたら、それはわたしではなく、わたしの内でイエスさまなのです。

お知らせに戻る

ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。