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教会からのお知らせ

復活節第3主日 勧めのことば

2024年04月14日 - サイト管理者

復活節第3主日 福音朗読 ルカ24章35~48節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音の中で、復活されたイエスさまと弟子たちとの出会いが語られます。復活節に読まれる聖書の箇所では、「イエスご自身が彼らの真ん中に立ち」ということばが度々繰り返されます。今日は、その意味を考えてみたいと思います。

まず「イエスご自身が真ん中に立ち」といわれていることです。復活されたイエスさまと弟子たちとの出会いのイニシャティブは、イエスさまご自身です。弟子たちが望んだのではありません。ルカ福音書では、今日の朗読箇所の前にエマオへの旅人の話が置かれています。使徒ではなかった2人の弟子たちは、イエスさまの十字架の死という出来事で、すべてが終わったと思って、エルサレムを後にしてそれぞれの生活に戻ろうとしていたのかもしれません。その旅の途中に、「イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められます」。弟子たちには、それが復活されたイエスさまであることがわかりません。つまり、復活されたイエスさまは、もはや弟子たちが知っていたような生前のイエスさまではなかったということなのではないでしょうか。生前のイエスさまであれば、わかったはずです。しかし、あたかも別の人であるというか、わたしたちが通常に認識できるような方ではなかったということだと思います。その理由は「二人の目は遮られていて、イエスだとはわからなかった」とあります。

イエスさまの復活は、イエスさまがお墓を開いて出てこられたとか、死者の中から蘇ったとかいった人間の頭の領域で理解できるような出来事ではないわけです。イエスさまの復活というのは、神の領域においてというか、永遠のうちにあることなのです。だから、わたしたちにわかるわけはないのです。それを教会はあたかも絵にかいた出来事のように教えてしまいました。イエスさまの復活は、蘇生物語のようになってしまったのです。もちろん、人間は物語を通して、つまり人間の語る言葉を通して、その奥にある神秘に触れていくのですが、物語そのものが事実であるかどうかが問題ではなりません。教会は多くの場合、物語をそのまま史実であるかのように教えてきました。

エマオへの旅人と歩き始められた復活されたイエスさまは、弟子たちに「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」とあります。イエスさまの復活を、わたしたちが頭で理解できるということはありませんが、人間が言葉をもってこの世界を理解している限り、言葉でもって物事を説明していくしかないのです。復活されたイエスさまもそうされました。しかし、人間が理解する言葉であるということは、どこまでいっても不完全で相対的なものであり、物事の一面だけを言い表すものでしかありません。イエスさまの復活ということも、マリア・マグダレナたちがイエスさまを納めたお墓にいくと遺体がなくなっていたとか、天使が「ガリラヤにいきなさい。そこであの方と出会うことができる」といったとか、11人の弟子たちに現れたとか、人間にわかる言葉で説明することしかできなかったのです。しかし、人間の言葉である以上、それは不完全な相対的な言葉であって、イエスの復活という人間の領域を超えた神の世界での出来事の一部しかいい現していないということに注意しておく必要があります。

人間の世界での出来事であれば、あるところまでは人間の言葉で説明し、解き明かすことができます。それでも、わたしの体験したことを、また相手の体験したことを、他の誰かが完全に理解できるということはありません。わたしたちは、人の気持ちがわからないとか、自分は理解してもらえないとかいいますが、それは当たり前のことなのです。わたしのことはわたししかわかりませんし、わたしがわたしのすべてをわかっているわけでもないのです。まして、人間の世界ではなく、神の領域において起こったイエスの復活という出来事を、人間の言葉で、また人間の理解で捉えることができるはずがありません。それが、エマオでの弟子たちが、復活されたイエスさまがわからなかったといわれていることなのです。

それでは、わたしたちは復活されたイエスさまと出会うことができないのかというと、そうではないということが今日の福音だと思います。復活されたイエスさまは、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」といわれます。それでも、弟子たちはその方がイエスさまだとは信じられません。おそらく生前のイエスさまのようではなかったのでしょう。しかし、その方の手と足には十字架の傷跡が残っていました。それでも弟子たちは、それがイエスさまだとわからず不思議がっています。つまり、わからないのです。そこでイエスさまは、エマオでの旅人にされたように、聖書を悟らせるために、「彼らのこころの目を開かれた」と書かれています。そのとき、弟子たちは復活されたイエスさまと一緒にいましたが、目が遮られていました。弟子たちはすでにイエスさまの復活の光に包まれていたのですが、彼らのこころの目が遮られていて、その真実-イエスの復活-が見えなかったということなのです。それは、あたかもわたしたちが日の光を浴びながらも、その光が見えないのと同じです。光があるということがあまりにも当たり前すぎて、不思議を不思議と思えない、そのことと同じです。わたしたちもイエスさまに目を開いていただかなければ、その光であるイエスさまを見ることはできないということなのです。

しかし、その光が何であるかを理解するのは、人間の言葉を通してです。わたしたちは言葉を通してしか、自分の身に起こっていることを理解できないからです。そして、そのことを解き明かす場として、聖書があり、パンを裂く式(ミサ)があるわけです。しかし、聖書を勉強して研究していればイエスさまがわかるとか、ミサに出ていればイエスさまがわかるということではないのです。その反対です。わたしたちが気づかせていただいたことを、言葉でわたしたちは理解するだけなのです。わたしたちは、イエスさまに光によってわたしたちの無明、闇を破っていただくこと、こころの目を開いていただくことが絶対的に必要なのです。イエスさまがそうしてくださらなければ、わたしたちはイエスさまに触れることも、理解することも出来ないのです。イエスさまが道、真理、いのちといわれる理由はそこにあります。イエスさまの方からわたしの方に来てくださる以外の道はないのです。

イエスさまという道を通して、真理、いのちであるイエスさまに触れさせていただく、気づかせていただく、わたしたちがいのちのうちに、光のうちに生かされているという真理に気づかせていただくことができるのです。そして、今自分たちが体験していること、これが復活されたイエスさまであり、永遠のいのちであるということを、言葉で教えていただくのです。そのとき、そのような人間を通して語られる言葉は、もはや人間の言葉ではなく、人間の言葉を通して働かれる、いのちのみことばがわたしのところにきておられることに気づかされるのです。

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