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教会からのお知らせ

復活節第4主日 勧めのことば

2024年04月21日 - サイト管理者

復活節第4主日 福音朗読 ヨハネ10章11~18節 

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はよき牧者の主日です。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」といわれ、よい牧者であるイエスさまの知り方とわたしたちの知り方が取り上げられます。しかし、イエスさまがわたしを知っておられるのと、わたしがイエスさまを知っているのとは同じ知り方ではありません。イエスさまの知り方は、わたしを愛し抜き、わたしのためにいのちを捨てるような知り方です。

それに対して、わたしたちがイエスさまを知っているというのは、洗礼を受けて信者を何年やっているとか、イエスさまについて勉強をして情報や知識をもっているとか、そういうことではありません。わたしたちがイエスさまを知っているというのは、わたしたちがイエスさまと出会っているかどうかということだといえるでしょう。わたしたちの中で、どれだけの人が本当の意味でのイエスさまとの出会いを体験しているでしょうか。イエスさまを知るということは、わたしたちを知っておられるイエスさまの愛と出会うということです。洗礼を受け何年信者をしていても、たとえ修道者や聖職者になった人たちでも、イエスさまと出会ったことがない人たちがいるのではないでしょうか。確かに、ミサに熱心に参加して、決められた祈りをし、教会活動をするかもしれません。イエスさまや教会についての教えや知識、典礼や神学についての知識もあるかもしれません。でもそれが、イエスさまと生き生きとした関わり、真の信仰をいただいている証拠にはなりません。イエスさまについていろんなことを知っていても、教会のことを一生懸命やっていたとしても、イエスさまと「わたしとイエス」という個人的出会いをしていないのであれば、信仰を生きているとはいえないのです。今、このことを聞いてピンとこないのであれば、真の信仰を得ていないのかもしれません。それをダメだといっているのではありません。もしそうであるならば、「わたしはあなたを愛している」といっておられるイエスさまとの出会いをイエスさまに願ってください。決まった祈りや形だけの祈りをするだけでは足りません。「あなたを愛している」といわれているイエスさまと、沈黙のうちに、わたしたちのこころのうちにおられるイエスさまと日々親しく出会えるように願ってください。それがイエスさまを知るということなのです。

実際に、わたしたちのなかで多くの人が、イエスさまといわず、神さまといっているのではないでしょうか。その神さまというのは誰でしょうか。もしそうであれば、おそらくイエスさまと出会ったことがないのかもしれません。イエスさまの復活とは、イエスさまがいつどこの時代にも、そこで生きている人と出会うことができる方であるという意味なのです。イエスさまが生きておられたときには、特定の時代、特定の場所、特定の人としか出会うことができませんでした。しかし、イエスさまの復活によって明らかにされたことは、イエスさまは時間と空間を超えて、すべての人の主、すべての人の救い主であるということなのです。すべての人の救い主であるということは、「わたしはあなたを救う」というお名前のイエスさまが、わたしを愛し抜き、わたしを救われるということなのです。愛したということは、救ったということです。愛するということは、そのままのわたしを愛しておられるのですから、イエスさまの愛に制限はありません。おまえは不格好だから、もう少しきれいになって、罪を洗い清めてからきなさいとはいわれないということなのです。わたしたち日本人は忖度をし、このままでは申し訳ないとか、相手はきっとこう考えているだろうからとか余計な計らいをします。しかし、イエスさまが愛するといわれるとき、そのままのわたしを愛されるのです。そのままで来なさい、あなたの中のあらゆる欲望や、妬みのこころ、腹を立てるこころ、そのような迷いをそのままもって来なさいといわれているのです。わたしはあなたをそのまま救うと仰っているのです。イエスさまがわたしを知る、愛するということはそういうことなのです。そのイエスさまの愛に、「はい」と答えることが信仰です。せめて、もう少しよくなってからとか、罪を犯さなくなったらとかいうのは、イエスさまの愛を、救いを疑っていることに他なりません。イエスさまはこのような罪深いわたしをお救いになれないとか、これは自分のことを卑下しているようですが、実はイエスさまの愛を疑っていることに他なりません。また、イエスさまはあの人のような罪人はおゆるしになるまいというのは、日本人の心情としてよくわかるのですが、これはわたしたちの高慢であり、イエスさまの救いの力を人間と比べて制限して疑っていることなのです。

わたしたちがイエスさまの愛、イエスさまの知り方をどれだけ想像しても、せいぜいわたしたち人間の力や考え方を最大限に延長したぐらいしかできないのです。このような人間の計らいや忖度が、わたしたちをイエスさまの真実の愛に触れるのを妨げているのです。わたしがイエスさまから愛されるために、わたしが変わる必要はないのです。イエスさまはそのままのわたしを愛しておられる、救われるのだと単純に信じることだけを望んでおられるのです。ときとして、わたしたちが自分を受け入れることができないと思うときでも、イエスさまはわたしを受け入れてくださっているのです。しかし、わたしたち人間はそのように人と関わり、人を愛し、人を知るということができません。ですから、イエスさまがそのようにわたしに関わり、愛し、知っておられることを信じることができず、本能的に疑ってしまうのです。そこで、イエスさまはわたしたちにご自分の十字架をもって、わたしたちにその愛の大きさ、深さが永遠であることを示し、復活して、わたしが何であっても何でなくてもわたしとともにいることを明らかにしてくださったのです。その真実に気づかされることを、信仰というのです。わたしがイエスさまの愛にふさわしくなるとか、清くなることに努めることが信仰生活でもないし、イエスさまがわたしのところに来ていただくように頑張ることが信仰ではないのです。そのままのわたしのところへ、復活されたイエスさまが来てくださることを信仰というのです。わたしの力で信仰心を起こすのではなく、イエスさまがわたしのところへ来てくださることによって、わたしの中に信仰が湧き起こるのです。

イエスさまはわたしを愛し、その愛をわたしたちが受け入れることに渇いておられます。イエスさまがどれだけわたしを愛したい、わたしをゆるし、救いたいと思われても、それをわたしが受け入れなければ、イエスさまはわたしを愛することはできないのです。わたしたちが回心しなければならないのは、わたしのあれやこれやの罪や欠点、弱さやを直すことではありません。そのようなわたしを、イエスさまはそのまま愛し、ゆるしておられることを信じないわたしたちの頑なさです。イエスさまはわたしを愛することを望み、渇いておられます。イエスさまは、今のわたしと出会うことを望んでおらます。わたしたちができることは、イエスさまの愛をそのまま、今、受け入れることなのです。わたしたちは、そのようにしてイエスさまとの出会いを深めていくことができるのです。

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