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教会からのお知らせ

復活節第5主日 勧めのことば

2024年04月28日 - サイト管理者

復活節第5主日 福音朗読 ヨハネ15章1~8節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はぶどうの木のたとえ話です。これは何のたとえ話であるかをよく見極めなければなりません。ここで非常に大切なことは、イエスさまは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」といわれたということです。わたしたちは、この箇所を聞くと、無意識にイエスさまが幹で、わたしたちは枝のように考えてしまいます。枝が幹につながっていることで、多くの実を結ぶことが出来るのだから、わたしたちもイエスさまにしっかりとつながっていましょうといって、「教会と繋がるとか、秘跡と繋がることを大切に」的な説教がなされます。

しかし、イエスさまは、“わたしはぶどうの木である”といわれ、“わたしはぶどうの幹である”とはいわれませんでした。ぶどうの木というのであれば、幹も枝も葉も根も、すべてを含んでいる木全体を指しています。わたしたちはその枝だといいわれたのですから、枝もぶどうの木です。ここで、イエスさまは、実はすごいことをいわれているのです。あなたがたは、わたしキリストであるといわれたのです。どういうことでしょうか。枝とぶどうの木は別個の生命体ではなく、同じいのちを生きるひとつの生命体です。もしイエスさまが、わたしはぶどうの幹で、あなたがたはその枝といわれたのであれば、意味が変わってきます。幹と枝であれば、それはぶどうの木の部分の分類、役割、機能です。そのような見方で考えると、枝は幹につながる限りにおいて、その役割を果たし、ぶどうの実を実らせることが出来る。しかし、イエスさまがぶどうの木全体で、枝もぶどうの木ですから、わたしたちもぶどうの木そのものであるということになります。わたしたちは気をつけないと、このぶどうの木のたとえを読むときに、イエスさまと自分の関わりを機能的に捉えてしまう危険性があるということです。ちょっとした違いですが、これはイエスさまとわたしたちの関わりを捉えるうえで、信仰上の根本的な誤解の元となります。

イエスさまが、幹でわたしたちが枝だという機能的な捉え方は、一見すると分かりやすいものです。しかし、その捉え方は、二言論的な「役に立つか立たないか」、「損か得か」という分別を前提にした見方になってしまいます。ですから、実を結ぶことが目的になり、実を結ばない枝は切ってしまえということになります。実を結ぶことは結果であって、わたしたちはそのために道具ではありません。そのことをわたしたちに当てはめると、よく祈って、教会に頑張って行って、よい信者になることが目的になってしまいます。実は、今までそういう信仰教育がなされてきたのではないでしょうか。キリスト教を信じることは「よい信者になって、人々の模範になって、そのご褒美として天国にいく」的な教育です。まさに、いい子になる教育です。そのようにしてきた教会のあり方が問題ですが、そのような信仰観、価値観こそ、まさに頑張ったものは報われて、頑張れないのは自分の責任だと決めつける現代の風潮そのものでもあるのです。社会貢献できないようなものは、報われるに値しないという考え方です。これは、イエスさまの考えとはまったく違っています。

しかし、ぶどうの木と枝との関わりを、いのちの関わりとして捉えると、実が結ぶかどうかということは、それはぶどうの木としてのあくまでも結果であって、ぶどうの木自体は同じ樹液で生かされていて、枝と幹というような木の機能的な違いではなく、ただひとつのいのちで生かされているという現実が浮き彫りにされてきます。だから、枝が切られたら、ぶどうの木全体が痛むのです。それを機能的な関わりとして捉えてしまうと、パウロがコリントへの手紙で警告しているように、「お前は要らない」とか、「お前は役立たずだ」という発想になっていきます。そのような、発想に陥りがちなわたしたちに、パウロは、「あなたがたはキリストの体であり、また、ひとり一人はその部分です(Ⅰコリ12:27)」といい、わたしたちは、ひとり残らず同じ大きないのちを生きる共同体、同朋であることに意識を向けさせようとします。

わたしたちは一人ひとりが、同じいのちを生きるものとして扱われなければならないのに、いつの間にか人間を人間と見ないで、役に立つか立たないかという人材として見てしまってはいないでしょうか。わたしたちは皆、人間として生まれているにもかかわらず、いつの間にか周りからも「人材」として見られてしまっているということです。人材は言葉の通り、人間としての材料で、はっきりいうと“商品“です。商品はお金に換算したとき、どれだけの値打ちがあるかで、その価値が決まってしまいます。わたしたちは、どこかそのように商品として育てられてしまっているのではないでしょうか。社会貢献が出来て、周りの役に立つとか、使えるかというような雰囲気が社会に満ちているわけです。教会の中もその例外ではありません。そうすると、実を結ぶ枝か、結ばない枝かで選別されます。それが会社であれば、会社に役に立つかどうか、教会であれば、教会に役に立つかどうかで選別されるということです。そのような誤った信仰観や価値観の中から、本当によいものが出てくるはずがありません。これは、教会の中であっても例外ではないのです。

ぶどうの木のたとえを通して、わたしたちは改めて自らの価値観が問われているといえるでしょう。これだけ世界で情報が飛び交う中で、かえって自分のことしか考えられない人間自身の姿がますます露呈されているように思います。ひとりの人間を、無限のいのちの繋がりの中で見ていくか、数、統計の対象として見ていくかです。わたしたち人類、いやこの世界、地球、宇宙は、神のいのちで生かされているひとつの大きな生命体のようなものでといえるでしょう。だから、枝が切られれば、ぶどうの木すべてが痛む。指にけがをすれば、わたしのすべてが痛むのと同じです。パウロは、「ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです(Ⅰコリ12:26)」といいます。わたしが苦しめば、他のすべてが苦しむ。わたしが喜べば、他のすべてが喜ぶ。誰かが苦しめば、皆すべても苦しむ、わたしも苦しむ。そこにはもはや自他の区別はない、同じいのちを生きているひとつの大きな生命体としての姿があります。だから、イエスさまはすべての人が救われるまで、その十字架の苦しみは終わることがなく、安息に入られることもないのです。

バタフライエフェクトということばがありますが、ある気象学者の「蝶がはばたく程度の非常に小さなかく乱でも遠くの場所の気象に影響を与えるか」という仮説を立てたことに由来します。つまり、あるところで起こったことが、生態系全体に大きな影響、変化を引き起こすことがあるという考え方です。日本のことわざにある「風が吹けば桶屋が儲かる」というのと同じです。日本では突拍子もないことのたとえとして使われていますが、実はこの世界はすべて繋がっているということをいい表すためのたとえであるともいえるでしょう。わたしの指のけがでわたしが痛むというのはわかりますが、わたしの痛みなど誰も感じていないというのが普通の一般の感覚です。しかし、イエスさまはわたしの指の痛みを痛んでおられるということなのです。これがいのちの感覚です。古来、日本人は地域の共同体や宗教観の中で、そのような感覚をもっていました。それが、「いただきます」とか、「お互いさま」、「させていただきます」ということばに日本人のいのちの感覚が現れていました。しかし、明治以降導入された欧米の教育や価値観は、キリスト教に由来する個人主義に裏打ちされたものでした。多くの日本人は、そのキリスト教に由来する個人主義だけを受け入れ、元来日本人がもっていたいのちの感覚を少しずつ失っていったのではないでしょうか。そして、キリスト教を土台とする西洋文明自体がいのちの感覚を失った結果として、エコロジーやSDGs、ラウダート・シなどが出てきたのです。

今日、あらためて、わたしたちのなかにいのちの感覚をイエスさまが呼び起こしてくださいますように祈りましょう。

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