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教会からのお知らせ

復活節第6主日 勧めのことば

2024年05月05日 - サイト管理者

復活節第6主日 福音朗読 ヨハネ15章9~17節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の箇所は、イエスさまが弟子たちとの別れの食事の席で、弟子たちの足を洗い、新しい掟として相互愛の掟をお与えになった箇所です。それまでは、旧約聖書の律法を要約するものとして、神への愛と隣人愛の掟が教えられてきました。共観福音書の中では、この神への愛と隣人愛の掟が、もっとも大切な掟として描かれています。イエスさまは、「律法全体と預言者は、この2つの掟に基づいている(マタイ22:40)」といわれ、神への愛と隣人愛は旧約聖書の教えのまとめであるといっておられます。旧約の教えはこの2つの掟にまとめられますが、イエスさまはこの2つが「新しい掟」であるとか、「わたしの掟」であるといわれたことはありません。それにもかかわらず、キリスト教全般において、この2つの掟がキリスト教の教えであるかにようにいわれてしまっています。この2つの掟は旧約の掟であり、古来どの宗教においてもみられるような万人共通の教えであって、キリスト教の専売特許ではありません。「自分にしてもらいたいことを、他人にもしなさい」とか、「自分にしてもらいたくないことは、他人にもするな」などという教えです。どうして、このような初歩的な間違いがなされているのでしょうか。

先ず、「自分自身のように」隣人を愛するのと、「わたしがあなたがたを愛したように」互いに愛し合うというのでは、出発点に決定的な違いがあることを指摘したいと思います。隣人愛の出発点は“わたし”です。しかし、相互愛の出発点は“キリストの愛”です。旧約が隣人愛と説くならば、新約の特徴は相互愛です。イエスさまはその根本的な相違を乗り越えていくために、先ず敵への愛を説かれました。善人にも悪人にも雨を降らせ、太陽を昇らせる父親のような慈悲深い神の愛を説き、それを敵にまで及ぶ愛として説かれていきます。「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい…父は悪人も善人にも太陽を昇らせ…だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい(マタイ5:44~48)」。そして、そのような敵への愛や無償の愛を実行した殉教者や証聖者を聖人と崇め、模範と教えてきたのが伝統的なカトリック教会です。確かに、隣人愛を敵への愛にまで昇華させたということは立派かもしれませんが、これはすべての人のための道ではありません。霊的エリート、聖人君主のための教えです。それにわたしが愛するというのであれば、愛の一方向しかいわれていません。イエスさまが説かれたのはキリストの愛に基づく相互愛であって、愛の一方性を徹底化した隣人愛ではありません。それを気をつけないと独善的となり、上から目線、傲慢、新しいファリサイ主義になりかねません。現在のカトリック教会の一般的な教えは、このようなところから出ているのではないでしょうか。

愛というものはその本質からして、一方向の愛だけでは完成されません。愛は、愛するものと愛されるものがいて、はじめて完成するものです。神は愛することしか知らないというのは事実ですが、神がわたしたちを愛してくださったのは、わたしたちが神を愛するようになるためなのです。救いというのは愛の完成ですから、救いは救うものと救われるもの、愛するものと愛されるものがあって、その相互性、一致によってしか成立しないのです。ですから、イエスさまがどれだけわたしたち人類を救いたい、愛したいと思われていても、わたしたちがその救いを、愛を受け入れないのであれば成立しないのです。今までのキリスト教は、神の無償の愛、敵のために祈りゆるす愛、相手への一方的な愛しか説いてこなかったように思います。マタイ福音書を用いて、キリスト者の聖性を、わたしたちが完全なものとなること、イエスさまの無償の愛にわたしたちがひたすら倣うこと、敵への一方的な愛を実践することであると教えてきたのではないでしょうか。それはわたしたちがイキガミさまか、生き仏にならなければできない至極難しい、特別な人だけが歩むことのできる至難な道であり、一般信徒はイキガミさまのおこぼれにあずかる的な信仰形態を作ってしまったように思えます。そうした後ろめたさから、祈りをする、献金をする、ボランティアをする、犠牲をするというキリスト教的な業の実践に結びついてきたように思えます。今の教会で教えられ、説教されていることはほとんどこのことではないでしょうか。しかし、幼いイエスのテレーズは、このようなあり方を、皆が結局神さまと駆け引きしているだけだといっています。

神への愛と隣人愛が、律法を完成する最大の掟であることについては否定しません。イエスさまは「正しい答えだ。それを実行しなさい(ルカ10:28)」といわれました。そして、「あなたは神の国から遠くない(マルコ12:34)」といわれましたが、遠くないということは「近くもない」ということなのです。話されていることの出発点、次元が根本的に異なっているということなのです。善きサマリア人のたとえでは、「(隣人愛を実行すれば)、命が得られる(ルカ11:28)」といわれましたが、イエスさまは永遠のいのちが得られるとはいわれませんでした。そもそも永遠のいのちを得るために神への愛、隣人愛を実行するのであれば、それは自分のためであり、命を得られても、それは永遠のいのちではないといわれたのです。イエスさまはわたしたちに、盗賊に襲われたそのかわいそうな人を助けるよい人になりなさいとか、その人に隣人愛を実行しなさいといわれたのではありません。その盗賊に襲われた人は、わたしが隣人愛を実践するための対象ではないのです。イエスさまがいわれたのは、その人の隣人、友となりなさいといわれたのです。これがイエスさまの相互愛でいわれていることとの違いです。その人はあなたの友であり、そのことに目覚めなさいといわれたのです。

愛はその本質からいって、愛するものと愛されるものがあってはじめて成立し、愛されるものは愛するものと等しくされ、同じ愛を共有することによって、その愛の交わりは無限に深められていきます。しかし、愛するということは、わたしの方が出向いていってできることではなく、先ずイエスさまがわたしの方に来られる働きがあってのことだといわれるのです。それが、「わたしがあなたがたを愛したように」といわれていることです。わたしたちは普通自分というものから世界を考えます。自分から世界へ出ていこうとするわけです。しかし、イエスさまがいわれたことは、反対に自分という一点に向かって世界が向かってきている、「わたし(神)があなたを愛する」という世界が、本来の世界の構造であるといわれたのです。このわたしが隣人愛を実行するなどというのは、大きな思い違いです。わたしが愛され、生かされていることが根本であって、自分が愛している、生きているなどというのは思い上がりです。この世界にわたしが生まれてきたのであって、わたしの後から世界ができたわけではありません。わたしは神さまの愛の中に生まれてきたのです。ですから、わたしが愛するという努力によって何かができるというのではないのです。そのことに気づかされることが相互愛の出発点なのです。

ですから、イエスさまのお望みは、十字架のヨハネの言葉をかりていうならば、「神の唯一のお望みは、わたしたちの霊魂を高めることである」といわれています。イエスさまが望まれていることは、わたしたちをご自分と等しいものとされること、それだけを望まれているのです。わたしたちをご自分と等しいものとするということ、それはわたしたちから愛されること、わたしたちを愛された同じ愛をもってイエスさまを愛することなのです。なぜなら愛の特徴は、愛するものをその愛の対象と等しくすることだからです。ただ、それがおできになるのは、イエスさまだけです。「あなたがたのうちには、神への愛がないことをわたしは知っている(ヨハネ5:42)」。しかし、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたから(ヨハネ15:15)」といわれます。ですからキリスト教の本質は、わたしが神を愛するとか、隣人愛を実践するとかいうわたしの自己中心性が破られて、神がわたしたち人類、世界に働きかけてくださったという神中心性こそがこの世界のあり方であり、愛の本質であることを知らせていただくことなのです。それが相互愛の掟、イエスさまの新しい掟のあり方であり、わたしたちはこのキリストの愛から出発することしかできません。そして、そのキリストの愛は、すべての人をひとり残らず救い取らずにはいられない愛の広がりそのものなのです。

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