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教会からのお知らせ

三位一体の主日 勧めのことば

2024年05月26日 - サイト管理者

三位一体の主日 福音朗読 マタイ28章16~20節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日は三位一体の主日です。今日の箇所は復活されたイエスさまと弟子たちが、ガリラヤで出会う様子が描かれています。そこでは、「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑うものもいた」と書かれています。原文では「彼らはイエスに会い、ひれ伏した。しかし、彼らは疑った」となっています。おそらく誰かが忖度して「疑うものもいた」と訳したのだと思います。教会としては、11人の弟子がイエスさまと出会い、礼拝しながらも疑ったというのは具合が悪かったのでしょう。でも、どうみても、彼らはイエスに会い、ひれ伏した、しかし、疑ったとしか読めません。おそらく、礼拝する、信じるという行為が、疑いと相いれないものであるという考え方があったのだと思います。それに、イエスの直弟子ともあろう使徒たちに信仰がなかったなどというのは考えられないという発想が教会の中にあったのだろうと思います。

西欧のキリスト教ではすべてにおいて信仰が前提であり、その前提である信仰を疑ってみるということが教会の歴史の中でなかったように思います。キリスト教がローマ帝国内に広がっていくときに、キリスト教徒は迫害を受けます。そして、その過酷な迫害を受けて、殉教までして信仰を貫いた人たちを殉教者としてたたえ、キリスト教が公認の宗教になった後は、徹底して信仰に生きた人を証聖者として崇め、列福列聖の制度が整えられました。そこでの信仰者のイメージは、キリスト教信仰を死にいたるまで貫いた人、またその信仰を徹底して生きた人であって、疑うということは棄教者であり、背教者としてのレッテルを貼られるということでした。信仰を神からの恵みとしては捉えていましたが、その信仰を守り、生き抜くのは人間であって、人間の意志が非常に重要視されていたように思います。ですから、疑うということは悪であり、信仰そのものが人間にどのように賦与されて、信仰の本体が何であるかを考えたことがなかったのだと思います。カテキズムによると、信仰は対神徳であるといわれ、神を起源、動機、目的とするとありますが、それは成聖の恩恵によって人に注がれる神の働きであるといわれています。信仰は人間に与えられた恵みであるというのですが、それがどのような意味で恵みであるかの考察がありません。ですから、疑うということは信仰の対極に置かれ、悪、罪なのです。

そもそもわたしたちが信じるということは、どういうことなのかということを考えてみる必要があると思います。教会ではよくあの人は信仰深い人だとか、信仰が強い人だといういい方がなされますが、それは何を意味しているでしょうか。概して、先祖代々信者であるとか、教会活動に熱心であるとか、よく祈りをするとか、そういうことを指しているのではないでしょうか。しかし、果たしてそのようなことが信仰の強弱、あるなしの証しになるでしょうか。ならないということは直ぐにわかります。誰もその人のこころの中をのぞいたわけではありませんし、本当のところはどうなのか誰もわからないからです。わたしたちが信者をやっているのはたまたまであって、状況というか縁が揃っているだけであって、信徒だったり、司祭だったり、修道者だったりするわけです。もちろん本人の努力とかもあるかもしれませんが、縁がなければ信仰などしていないわけです。ですから、信仰はわたしの力や努力などでどうこうできるものではないのです。その意味では、恵みというのはその通りなのですが、自分というものを真面目に掘り下げていくと、自分の中に信仰など湧くはずがないことがわかります。

わたしたちは何を信じているかというと、イエスさまの真実、イエスさまの信仰を信じているわけです。イエスさまの真実、信仰は、生きとし生けるものの救いです。それは、生きとし生けるものが救われない限り、自分は安息に入らないといわれたのがイエスさまの願いです。そう考えると、イエスさまの願いというものは永遠に実現されることがない願いであることがわかります。人類、そして生きとし生けるものは無限にいるわけですし、そのものを救いたいというイエスさまの願い、そしてその働き、つまり生きとし生けるもが苦しむとき、ともに苦しまれるわけであり、十字架の苦しみも無限なわけです。ところが、わたしたちの考えている救い等は、所詮たかが知れています。世界に紛争がなくなるとか、貧しい人がいなくなるとか、自分の近しい人の幸せを願うとか、もちろんそれは祈らなければならないのですが、わたしたちは自分の幸福の延長線上にあるようなものを救いとしてしか考えることができないのです。わたしたちはイエスさまが思っていらっしゃるような救いを、そもそも考えることなどできないのです。わたしたちが救いということを考えるとき、必ず救われたものと救われていないものが前提になってしまいます。洗礼というとき、洗礼を受けたものと受けていないもの、病気というとき、病気が治った人と治らない人とか、教会というと、教会に来ている人と来ていない人、恵みを受けた人と受けていない人とかいうふうに垣根をこしらえてしか考えていくことができません。わたしたちは救いというものを、イエスさまという囲いの中に入ることだとしか考えられないのです。だから、「イエスさまの囲いに入っていない可哀そうな羊がいる」という発想になるのです。これはどの宗教も同じです。

しかし、イエスさまはそのような救いの垣根というものを破壊されたのです。それが神の国といわれました。ですから、弟子たちやわたしたちがイエスさまのことを理解できない、信じられないのは当たり前なのです。イエスさまが、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」といわれたということは、イエスさまが世の終わりまで、“あなたがたとともにいないという人がいない”ということを意味しています。だから、ロシアもウクライナも、ハマスもイスラエルも、その敵味方に関係なくともにおられるということなのです。イエスさまのいわれるそんな救いが何であるか、わたしたちがわかるはずがありません。わたしたちは、ロシアが悪いとか、誰それが悪いといいます。自分は正しいと思っているからです。イエスさまにはそういうものがないということなのです。それがイエスさまの信仰です。このような信仰がわたしの中から湧くはずがありません。わたしは、あいつは好きで、あいつは嫌いだといっている、わたしが死んだ後にいくと思っている天国には、わたしが好きで大切な人たちだけがいて、わたしの敵やあの嫌いな奴、ゴキブリかカメムシはいないのです。イエスさまの神の国とは、そのようなことが問題にならない無碍の救いのことなのです。わたしが信じているといっている信仰など、自分が都合よく思い込んだだけであって、それをいくら教会が教えているからとか、聖霊が働いているからといっても、わたしたちは自分中心に、自分勝手にしか信じることができないのです。そのような信仰が果たしてわたしを救うことなどできるでしょうか。 

真の信仰はイエスさまの真実、信仰であって、それがわたしの中で信じるこころを生じさせているだけなのだということがわかります。ですから、これはわたしの信仰だとか、わたしが信じているのだといった瞬間に、それは借り物、偽物になってしまうのです。わたしたちが今日祝う三位一体の神秘は、神さまのこの無碍の救いの働き、愛の働きを祝います。よく三位一体は神秘であるといいます。その通り、人間の救いの概念、範疇をはるかに超えた神の救いの働きを祝うのです。ですから、どこまでいってもわたしたちには神秘です。神さまの救いには、如何なる罪も、如何なる区別も、国境も、性別も、宗派も宗教も妨げにならないのです。勿論カトリックの枠などありません。だから、わたしたちは本能的にそのようなイエスさまの救いを疑ってしまうのです。わたしたちが経験したことも、考えたこともないからです。そして、その信じることができない、不信仰のわたしたちにイエスさまは“近寄って来ら”れるのです。このことがイエスさまの真実、信仰なのです。わたしはその信仰にあずからせていただくのです。

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