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教会からのお知らせ

年間第13主日 勧めのことば

2024年06月30日 - サイト管理者

年間第13主日 マルコ5章21~43節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の福音はヤイロの娘と出血病の女の癒しの物語です。今回、ここで取り上げられていることは、信仰とは何かということです。それで、おもに出血病の女の癒しの箇所から見ていきたいと思います。ユダヤ教の規定では、レビ記に出血病についての詳細な記述があります(15:25~)。この女性は、12年間出血病にかかっており、多くの医者にかかっても治ることがなく、かえってひどく苦しめられ、全財産を使い果たしてしまったと書かれています。当時の医学では、ほとんどなすすべがなく、出血が止まらない限り、この女性は汚れたものと扱い続けられることとなります。当時のユダヤ教の中では、その女性が触れたもの、そして、触れたものに触れることも汚れとされていました。ですから、この女性が共同体の中で宗教的、社会的差別されて心身ともに大変な苦しみを抱えていたことがわかります。

そのような、状況の中で彼女が耳にしたのは、イエスという方がいろいろなところで病人を癒しておられるという噂です。彼女は、もはや頼るべきものが何もないところまで追いつめられていました。彼女が最後に希望を託したのは、いろいろな病気を癒しているといわれていたイエスの存在です。彼女は藁をもつかむ思いで、イエスさまが自分の住むところに来ておられることを聞きつけ、群衆に紛れてイエスさまに近づきます。そして、後ろからイエスさまの服に触れます。「この方の服にでも触れれば癒していただける」という、彼女の願いが癒しを引き起こします。イエスさまは群衆に囲まれて、押しつぶされそうになっていました。しかし、自分の内から力が出ていったことに、自分のいのちの根源に誰かが触れたことに気づき、「わたしの服に触れたのは誰か」といわれます。多くの群衆にもみくちゃにされているのに、イエスさまは「自分に触れたのは誰か」といわれました。群衆に取り囲まれていて、どんなに距離的に近くにいようとも、いのちの主であるイエスさまの本質に触れ、癒しの力を引き出したのはこの出血病の女でした。この物語を読むと、イエスさまと関わるということ、真の意味でイエスさまと出会うことは、信仰によってイエスさまの本質に触れることであるということがわかります。ここから、わたしたちは、改めて信仰とは何かということを考えていくことが出来ると思います。

先ず、この女性は何も頼るものがありませんでした。わたしたちは元気なときには、自分の力で何でもできると思っています。しかし、様々な困難、特に老病死などの前には、自分の努力や頑張りだけではどうにもならない自分の限界を嫌というほど思い知らされます。わたしたちは、自分で何でもできると思っている限り、誰かに助けを求めようとはしません。自分が神さまのように全能であると思い込んでいるのです。しかしこの女性には、もうイエスさましか頼るものがありませんでした。これが、徹底的な貧しさの体験です。イエスさまが福音の中で、「貧しい人は幸せ」といわれるのは、その貧しさ自体を肯定するのではなく、すべてにおける徹底した貧しさ、つまり、自分の弱さ、限界を真に知ることが、自分の力を超えたもの、真実を求める機となるということなのです。人間はここまでしなければ、真実を求めようとはしないということかもしれません。

わたしたちは、多くの場合、イエスさまを一般的に信じて、まじめにやっていれば、それでよいキリスト者、よい信者であると思っています。今までそのように教育され、信心深くやってきたのではないでしょうか。しかしそれだけなら、イエスさまの話を聞いて、押し寄せてきた群衆と何ら変わりないということなのです。今日の福音で、イエスさまの周りに押し寄せた群衆の中で、唯一、イエスさまとの真の出会いを体験したのはこの出血病の女性でした。その違いは何でしょうか。確かに、わたしたちはイエスさまについていろいろなことを教わり、信じているかもしれません。ミサに行くし、お祈りもする、いわゆるよい信者です。しかし、それだけでは十分ではないということなのです。それだけでは、信仰生活は先へ進まないということです。イエスさまとの真の出会いは、わたしたち側の努力や精進、またイエスさまについての知識などとは関係ないということです。ペトロたちの方が、この女性よりもずっとイエスさまと長く一緒にいました。しかしこの女性は一瞬にして、イエスさまのいのちの本質に触れて、イエスさまと深い出会いを体験します。この物語を表面的に読むと、彼女からイエスさまに触れて、イエスさまの癒しの力を引き出したかのように描かれています。また、イエスさまも「あなたの信仰があなたを救った」といわれますから、やっぱりわたしたちが熱心になって、わたしが一生懸命に求めて信じなければならないんだと考えてしまいます。しかし、それは大きな勘違いです。彼女は「この方の服にでも触れれば癒していただける」というイエスさまへの信仰をもって、イエスさまの服に触れます。その信仰は、彼女の心の中に生じましたが、そのような信仰を引き起こしたのは、彼女ではなくイエスさまご自身なのです。

彼女は「この方の服にでも触れれば癒していただける」という信仰を、どのようにして生じさせたのでしょうか。彼女にイエスという見ず知らずの男が自分を癒してくれるというかもしれないという淡い希望を抱かせたのは、彼女の徹底した貧しさの体験がその機となったかもしれませんが、実はイエスさまご自身が彼女と出会いたいと熱く願っておられたからなのです。それがイエスさまの願いなのです。ですから、彼女の信仰は彼女の中に生じますが、その信仰を彼女に中に生じさせたのは、彼女と出会いたいと願っておられたイエスさまご自身、イエスさまの真実なのです。この真実を信仰というのです。真実も信仰もギリシャ語では同じ言葉です。ですからその信仰は、イエスさまからの恵みとして与えられたものでしかありません。

おそらく、わたしたちのほとんどが、イエスさまの周りに群がる群衆のようなもので、イエスさまとの真の出会いをしていないのではないかと思います。だから、お祈りしたら、ミサに真面目に行っていれば何とかなると思っている、そのような表面的な信仰に留まっています。別のいい方をすれば、あなたは自分の信仰や努力で、自分の祈りで自分を何とかできると思っているのですかということなのです。彼女は自分の徹底した貧しさの体験を通して、自分は本当にイエスさまに出会って、救われなければならない存在であることに気づかされました。この気づきをキリスト教では回心というのです。

今日の物語は、癒しということが前面に出ていますが、癒しはきっかけに過ぎません。癒しということを通して、イエスさまとの真の出会い、この女性の真の信仰生活の始まりが描かれています。イエスさまは、「安心していきなさい。あなたの信仰があなたを救った」といわれます。今までは、病気を治してほしい一心でイエスさまにすがってきました。しかし、癒された今、イエスさまと出会った今、その信仰は、今までの自分勝手なものではなく、まったく異なったものになっていきます。聖書には、この後、彼女がどのように生きたのかは描かれていません。聖書がいつも描くのは、イエスさまの人類を救いたいという願いと、そのイエスさまと人類の出会いです。そこには、あなたはイエスさまと出会って、救われなければならない人間なんですよということがはっきりと、わたしへの呼びかけとして知らされてきます。それがなければ何も始まらないのです。そして、そこから彼女の真の信仰生活が始まり、イエスさまの友としての歩みが始まっていくのです。

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