information

教会からのお知らせ

年間第17主日 勧めのことば

2024年07月28日 - サイト管理者

年間第17主日 福音朗読 ヨハネ6章1~15節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日から数週間にわたってヨハネ福音書のパンの増やしの場面が朗読されていきます。このパンの増やしの奇跡が実際の出来事であるとか、歴史的な史実であるかどうかは問題ではありません。わたしたちが聖書を読むときに注意しなければならないことは、聖書は2千年前の、ある意図をもって書かれたものであるということです。それで、今日は聖書を読むときの読み方についてお話ししたいと思います。

わたしたちが普通の文章を読むときに、その文章がどのような背景で書かれているかを無意識に判断して読んでいます。例えば朝、新聞を読むとき、無意識のうちに今読んでいる記事がどういう種類であるかを判断しながら読んでいます。新聞の中にはニュースもあれば、社説もある、広告もあり、論文や解説、俳句や和歌もあります。ですから、わたしたちは新聞を読むとき、広告であればそれをニュースや時事記事としては読まないわけです。しかし、どういうわけか聖書を読むとき、特に新約聖書である場合、多くの人が福音書をイエスさまの伝記のように、また具体的な出来事の報告として読んでしまうように思います。ですから、今日の聖書の箇所などでは、イエスさまが具体的にパンの増やしをおこなわれたと素朴に読んでしまいます。そして、イエスさまがパンの増やしをおこなわれたのを信じるといいます。しかし、信じているということは疑っているということの裏表であって、本音のところでは事実であるかどうかを疑っているということに他なりません。もし、イエスさまがパンの増やしを歴史的事実としておこなわれたのであれば、わたしたちはパンの増やしの奇跡をおこなわれたと信じますとはいわず、奇跡がおこなわれたというはずです。わたしたちは、聖書を読むとき寓話やたとえ話をそのまま事実であるかのように読んでしまっているわけです。

ですから、今日の聖書の箇所を何とか説明するために、実は皆がパンをもっていたのだけれど、大人はずるいので隠していた。小さい少年が正直に自分のもっている大麦パン5つと魚2匹をイエスさまに差し出したのを見て、大人たちは恥ずかしくなって、自分たちが隠していた食べ物を出したので、皆が分かち合って満腹したのだという説明をする人もいます。それであれば、今日の聖書の箇所は、「お互いに助け合いましょう」という単なる教訓話になってしまいます。福音書はいわゆる伝記ではないし、出来事の報告書でもなく、まして単なる教訓話でもありません。聖書は何よりも、当時の人々の信仰告白の書であるということです。その意味で、パンの増やしの物語は事実の報告でも、教訓話でもなく、おそらく初代教会で行われていた感謝の祭儀、ミサを下敷きにした物語であるといえばよいでしょう。

つまり、わたしたちが日曜日ごとに祝うミサと呼ばれている感謝の祭儀の意味を深めるための物語であるということです。ですから、イエスさまがどのようにパンを増やされたのかとか考える必要はなく、パンの増やしというのはひとつの寓話であるといえるでしょう。聖書の中で、イエスさまが湖の上を歩かれたとか、昇天されたというような類の話もそうです。視覚的、象徴的表現で何かを伝えようとしたということです。また、イエスさまが病人を癒されたという物語もありますが、それはわたしたちが病人や怪我人に手あてをするというように、イエスさまが病人に手をあてられたということなのでしょう。それが、教会の中では病者の秘跡として伝えられています。手をあてれば病気が治るとかいうことではなく、病気になると病気がすべてとなってしまっているその人に、手をあてて安心させられたのだといえるでしょう。わたしたちは病気になると、自分の病気のことしか考えられなくなってしまいます。そのようなわたしたちに手をあてて、大丈夫だとおっしゃってくださったのです。ですから、病気が治るかどうかが問題ではなく、イエスさまが声をかけてくださったことで、こころの不安が取り除かれて、本来の自分を取り戻すことができたということだと思います。そのように考えていくと、パンの増やしの物語のテーマは何でしょうか。

 イエスさまの話を聞くために集まってきた人々が、イエスさまのことば、イエスさまの現存を通して、イエスさまがともにおられるということを、個人として、共同体として体験したということだといえばよいでしょう。ですから、イエスさまがパンを増やしたとか、それを配って食べたとかいうことはひとつのシンボルです。しかし、人々が満たされるためには材料が必要であったということです。それが例えば、ひとりの少年が差し出した、5つの大麦パンと2匹の魚です。大麦パンはつつましい庶民の食べ物です。そのつつましいものをイエスさまに差し出し、それをイエスさまが手に取られたとき、それは多くの人を満たすものとなったということです。大切なことは、イエスさまに差し出すということ、それをイエスさまが取られるということです。そして、それが何であるかは問われないということです。イエスさまが働かれるためには、わたしたちの何かを使って働かれます。イエスさまが働かれるということを、一般的には恵みを受けるとか、救われるといわれています。木が揺れていることで、風が吹いていることがわかります。風があることがわかるには、風を遮るものが必要です。同じように、わたしたちの何かを使って、イエスさまがおられ、働かれていることがわかるのです。

そのもっともわかりやすいものが、わたしたちの罪です。わたしたちは罪がゆるされたとき、イエスさまが働いておられることがわかります。わたしたちは、罪とか弱さとか、小ささ、つつましさは、イエスさまと相いれないと考えます。しかし、そうではなく、罪というイエスさまを遮るものがなかったなら、わたしたちはゆるされたということを体験することはできないのです。ですから、イエスさまは何でもお使いになって働かれる、それが今日の物語です。わたしたちがゆるしを体験したり、癒されたり、救われたと感じるのは、ゆるされなければならない罪、癒されなければならない傷や病、救われなければならない闇がわたしの中に存在しているからなのです。ですから、感謝の祭儀であるミサは、わたしたちのゆるしの場、癒しの場、救いの場でもあるのです。それを個人としてだけでなく、共同体として体験するということなのです。より正確にいうならば、わたしたちが何であっても何でなくてもゆるされていること、わたしたちが癒されつつあること、わたしたちが救われている、また救われつつあることを体感する場なのです。ですから感謝の祭儀といわれるのです。わたしたちがどのような心構えで、感謝の祭儀を祝っているのかで、感謝の祭儀が感謝の祭儀になるかならないかが決まってきます。ミサが義務だと思っている人にとっては、果たさなければならない義務を果たすためだけの場であり、自分の望みが満たされる場だと思っている人にとっては、望みが満たされるか、あるいは失望の場、不満の場になります。聖体だけをもらうことを期待してくる人にとっては、精神安定剤をもらいに来ることと変わりません。それなら、感謝の祭儀はわたしがイエスさまを利用するだけの場になってしまいます。

 イエスさまは群衆がそのようなものであったことに気づかれたので、「またひとりで山に退かれた」とあります。“また”、といわれるのですから、イエスさまがパンの増やしをされるたびに、いつもそうだったということなのです。つまり、すでに当時の教会の中で、何度ミサに参加しても人々の態度は何も変わらないという問題があったのです。自分のために参加していたからです。さて、わたしたちにとって、感謝の祭儀は感謝の祭儀になっているでしょうか。今日はそれを問うてみたいと思います。

お知らせに戻る

ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。