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教会からのお知らせ

年間第21主日 勧めのことば

2024年08月25日 - サイト管理者

年間第21主日 福音朗読 ヨハネ6章60~69節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日はイエスさまのもとから多くの弟子たちが去り、12人だけが残り、彼らに「あなたがたも離れて行きたいか」とイエスさまが尋ねられる箇所です。イエスさまのガリラヤでの宣教に陰りが出た、その出来事が取り上げられていきます。

共観福音書の中で、イエスさまがフィリポ・カイザリアにいかれたとき、弟子たちに人々はわたしのことを何と呼んでいると質問された直後、自分のエルサレムでの受難を予告される場面と対応しています。いずれにしても、イエスさまのガリラヤでの宣教活動は早い段階で行き詰まり、挫折を迎えたということなのです。それは、人々がイエスさまの神の国の福音を受け入れなかったというか、人々が理解できないことが離れていった原因だと思います。12使徒たちもイエスさまの神の国の福音を理解していたわけではなく、自分たちもイエスさまを見限って離れていきたいというのが本音だったのかもしれません。実際のところ、イエスさまがエルサレムに行って、ユダヤ教の指導者たちと対決していこうと決意されるのをみて、イエスさまの真意を理解していない弟子たちは、これは危ないと思って自ら武装をし始めています。

多くの弟子たちがイエスさまを離れていった理由を、イエスさまが自ら説明されています。「いのちを与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話したことばは霊であり、いのちである」と。霊とは人のうちに働く神の力を指しています。共観福音書では神の国といわれています。その霊に反するものをヨハネは肉と呼び、共観福音書では神の国に対して律法をあげています。霊や神の国が何であるかを説明するのは、とても難しいのです。霊というのは、超常現象やオカルト的な現象ではなく、神の国も理想的な国家とか、死後にいくような天国や楽園でもありません。ですから、肉、律法を説明した方がわかりやすいのでそこから話してみたいと思います。

肉、律法というものは、人間が通常生きていて、それにわれわれが従っている秩序や道理、価値観、思考体系全体を指しています。例えば人間が息を吸う、吐くというような生命活動から始まって、正しいことをすればそれは善として評価され、悪いことをすれば罰を受けるというような人間の社会倫理や様々な活動など、ことばで説明できる人間のすべての事象を指しています。また、人間の具体的な活動、例えば介護をする人がいて、介護を受ける人がいて介護というシステムが成り立っていること、育てたり教えたりする人とそれを受け取る人がいることで家族や教育、社会が成り立っていること、また、支配するものがいて、支配されるものがいて国家や政治が成り立っていることなど等です。こうしたものは人間の生活、社会を作っていくために不可欠なもので、それなくしては成り立たないものであるわけです。ですから、肉、律法が悪いという意味ではありません。人間の生命活動、介護、教育、政治といった人間のあらゆる社会活動など、それらは人間の生活が成り立っていくために必要なものです。そのような秩序やシステムが正常に機能していることで、人間は安心安全な生活をすることができます。しかし、そのようなシステムが動いていくときに、どうしてもそこにひずみというか、歪みが生じてくるということなのです。それが、人間のもっている限界でもあるわけです。

介護を受ける人がいるから、介護をする人がいるのであって、皆が介護を受ける人であれば困ってしまいます。反対に皆が介護する人なら介護は成り立たないわけです。介護を受ける人と介護する人がいて、初めて介護が成り立つわけです。しかし、どういうわけか介護をする人は介護をされる人より上に立ち、教育をする人は教育を受ける人より偉くなり、支配される人より政治家の方が権力や財力をもつようになっていきます。そして、そこに支配・被支配、上下関係、従属関係という力関係、権力構造が生み出されていきます。そこには、お互いがあって初めて成り立つ自分たちの関係であるにも関わらず、いつのまにか両者の間に力関係や上下関係が生まれてしまいます。そのゆがんだ関係性、またその関係を調整するものが、聖書の中で律法とか肉というふうにいわれているのです。

イエスさまが説かれた神の国は、そのお互いの関係性がそれぞれ相対するままで、より高い段階で止揚された状態、そのお互いがともに尊敬しあう関係性を指しているのです。つまり、教えるものと教えられるもの、助けるものと助けられるもの、救うものと救われるものの間に上下、優劣などというものがない世界が神の国、本来のいのちのあり方ですよと、イエスさまはいわれたのです。ですから、そこでは、立場の違いはありますが、善人悪人、上下、優劣が問われないということなのです。そこには善人も悪人も、義人も罪人もいないのだといえるでしょう。わたしたちは神の国に入ることを救いだと考えていますが、イエスさまは、天の父は悪人の上にも善人の上にも同じように太陽を昇らせ、雨を降らせられるといわれました。また、敵を愛せよといって、敵味方の区別をやめるようにいわれました。それは単なる道徳的な要求として教えを説かれたのではなく、神の国というものは、善人悪人、敵味方、優劣その他のいかなる区別も差別もないことであるといわれたのです。わたしたちが神の国に入るということを考えるとき、人間の善悪優劣の世界の延長線上での救いを考えてしまいます。つまり、救われない側ではなくて、救われた側、善人の側に自分が入ることで安心しようとします。しかし、そのようなものは神の国ではないといわれたのです。イエスさまは、今までの旧来の宗教的あり方さえも相対化されたのです。

イエスさまは神の国、霊ということばをもって、わたしたちが表面的にみている世界のもっと奥にある“こと”について話されたのです。すべてのものを区別せず、すべてのものを生かしているもの、その“こと”、それをイエスさまは霊とか神の国といわれたのです。そのようなすべてのものを生かしているのは、人間の力とか活動ではなくて、大いなるいのち、その働き、大生命、大宇宙といわれるような何かであり、それによってわたしたちは生かされているのだ、そのことに気づきなさいといわれたのです。そのような大きないのちは、わたしたちが目に見えることで人間を判断したり、区別したり、差別しません。もちろん、人間の社会活動が成立するためには、律法や肉、決まり、ことばが必要です。でも、そのことばにならない以前の大いなるいのちによってわたしたちが生かされていることに、わたし一人が目覚めていくとき、イエスさまのことばが、わたしを生かしているいのちのことばであることがみえてくるということでしょう。実は、それを永遠のいのちと呼んでいるのです。ですから永遠のいのちとは、来世のいのちとか天国のいのちではなく、イエスさまのわたしたちを生かす働き、願いのことをいうのです。

イエスさまの働きは、時間空間を超えて、すべてのものに働き、その働きが及ばないというところはなにもなく、わたしがどこにいてもいなくても、わたしを必ず捕らえて離さないという願い、働きなのです。その大いなる働きに気づかず目を閉ざしているのが、わたしのありさまなのです。このイエスさまに背を向けて離れていこうとするわたしたちに「あなたも離れていきたいのか」と声をかけ続けておられるのが、イエスさまなのです。そのイエスさまは「あなたは必ずわたしに捉えられるのだ」といわれ、イエスさまのお名前である「わたしはあなたを必ず救う」とわたしを呼び続けておられるのです。わたしたちが「イエスさま」と祈ることこそ、イエスさまの願いがわたしに届いている証拠なのです。ですから、わたしが信じて、「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧…」といっているのではないのです。そのようにいわせておられるのは、わたしではなく、わたしの中で働く神の働き、わたしに届けられたイエスさまの願い、イエスさまの信仰なのです。ですから、わたしが信仰告白するのではなく、わたしの中のキリストがしておられるのです。そのことを、パウロは「もはやわたしが生きるのではなく、キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラ:20)」といいました。そのイエスさまの呼びかけがわたしに届いていること、その内なる働きこそが神の国なのです。それに気づくようにとの呼びかけなのです。

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