年間第22主日 勧めのことば
2024年09月01日 - サイト管理者年間第22主日 福音朗読 マルコ7章1~23節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日から、またマルコ福音書を読んでいきます。今日は、ユダヤ教の清浄規定というものが取り上げられていきますが、根底にあるのは人間の苦しみはどこから来るのかという問いであるといえるでしょう。ユダヤ教では、聖と汚れを区別することが非常に大切にされてきました。それは、衛生という概念がなかった時代、人々の健康をいかに守るかということを律法という宗教的な概念を用いて説明しようとしたのだと思われます。それで、聖なるものと汚れているものをはっきりと区別し、汚れを避けることで、神さまに受け入れられると考えられるようになっていきました。結果的に、そのような律法がユダヤ人の健康や民族を守ってきたことは確かです。しかし、その考え方は、人間社会のなかに分断を生み出し、差別、区別を宗教的に正当化するものになってしまいました。すべての宗教は、すべての人の救いを目指すといいながらも、宗教上の差別、区別という課題を抱えてしまっているのです。しかし、このことは宗教の問題であるだけではなく、同時にわたしの内なる問題でもあるのです。わたしが自分というものをどのようにとらえているかということが問われるからなのです。
わたしたちが生きていくとき、老病死は避けることが出来ません。わたしたちが望むと望まざるに関わらず、老病死はわたしたちに訪れます。イエスさまの生きていた時代は現代と違って、ちょっとした病も死と直結しました。ユダヤ人たちは、病を誘発するものを細心の注意を払って避けました。そのために、手を洗うとか、沐浴するとか、食器を洗うこと、寝床を清潔に保つことを、宗教的な規則としておこなうようになりました。手洗いにしても、日本では通常の習慣としておこなわれていますが、欧州においてさえも必ずしも通常のことではないのです。日本人は衛生的で、当然のようにそのような対策を講じることが出来ます。しかし、全世界では、今でも清潔な水で手洗い、うがい、歯磨き、洗濯、入浴し、またバランスの良い食事を取り、家を清潔に保つために掃除をし、充分な睡眠がとれる環境を整えることができない人たちがたくさんいるということです。そのような、基本的な生活を整えられないということは即、病、死と直結していきます。世界的に見ても、わたしたちは、非常に高い生活の質が保たれているのです。ユダヤ教は衛生ということを、宗教として教えていたということになります。
しかし、そのような決まりが人々を助けるのではなく、分断、差別を生み出していったというのが今日の聖書箇所の問題です。民を壮健に保つための決まりでしたが、その規則を守ることができる人たちというのは、ある程度、生活の質が保障されている人たちでした。多くの民衆は、守れなかったというより、貧困という問題を抱えていたので、その規則を守ることが出来ませんでした。そして、その規則を守ろうとした人たちは、自分たちができない仕事や様々な作業を、貧しい人たちに担わせていたというのが当時の状況でした。例えば、安息日の労働は禁じられています。しかし、今日は安息日だから羊の世話をしないということはできません。そうすると、羊の世話のために、貧しい人たちを雇うわけです。そして、彼らに羊の世話をさせました。にもかかわらず、羊飼いは安息日を守ることが出来ない人たちだと見下し、差別しました。そして、彼らを汚れたもの、罪人とみなし、ファイリサイ人は彼らと接触することを避けるようになります。
そのような、聖と俗を分けて考える二元論的な発想は、人々の間に分断をもたらします。根底にある問題は、聖と俗という区別を持ち込み、そこに境界線を引き、境界線の中に入っている人たちは清い、つまり救われるものとし、境界線の外にいる人たちは汚れている、つまり救われないと決めつけたのです。これは宗教の問題である以前に、わたしの中にある忌避意識の問題です。このわたしの中にある忌避意識が、すべての宗教の中にみられ、救われたものと救われないものという境界を作り出し、救われた側に入ったものだけが救われて、ますます自分の世界に閉じこもり、自分のこころとからだを清浄に保つことだけに関心を払うようになっていくという問題がみられます。それは、すべての宗教が抱えている問題ですが、根底にある問題はわたしの忌避意識なのです。イエスさまは、わたしたちに分断、差別、区別を作り出しているものが一体何かということを正面から取り組まれたのです。
一般的にわたしたちは、悪いものや自分に都合のよくないものは自分の外からくるというふうに考えます。あの人のせいで、あの病気のせいで、あの人さえいなければ、あの出来事さえなければというふうに考えます。もちろん、わたしたちの外側からくるいろいろな難しい状況があることは確かです。確かに、病気はわたしに都合を聞いてくれませんし、事故にあうとき、事故にあってもいいかどうかわたしに相談してくれません。老病死は、わたしが年をとってもいいか、病気になってもいいか、死んでもいいか、相談してくれません。わたしが望むと望まないに関わらず、突然というか当たり前のように、自然にわたしのところにやってきて、そのことからわたしは大きな影響を受けてしまいます。ということは、わたしたちが生命体として生きていくうえで、そのようなことを避けることはできないというか、自然なことであるということなのです。そう考えていくと、自分の外に汚れがあって、それがわたしを汚しているとか、苦しめているという単純な考え方は成り立たなくなります。つまり境界線を引いて、清いとか汚れているというふうに区別、差別しているのはだれでもなく、当事者である“わたしのこころ“、わたしの都合に他ならないということなのです。それをイエスさまは「外から人のからだに入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」といわれました。清いもの、汚れたものの区別があるのではなく、それを作り出しているのは“わたしのこころ”なのだということです。
人間はものごとを区別していくことでしか、この世界を理解していくことができません。だから区別し、分析することで、この世界が、宇宙が、いのちがわかると思い込んでいます。このような善人と悪人、聖人と罪人、救われるものと救われないものという区別は人間にはわかりやすいのですが、それが、宗教や社会の中で取り上げられていくとき、それは容易に人々の間に分断、差別、暴力を生み出してしまいます。人間の世界には、完全な善もないし、完全な悪もありません。これは、犯罪を肯定しているわけではありません。イエスさまにとっては、清い人汚れた人、善人悪人の区別はないのです。しかし、わたしたち人間が生きていくということは、悲しいことに、自分が望むと望まないのにも関わらず、夫々の置かれた状況の中で、善人にもなるし悪人にもなる、聖人にもなるし罪人にもなる、被害者にもなるし加害者になるということなのです。キリスト教では、人間の自由意志を強調しますから、善と悪をきっちりとわけて、わたしが悪いか、悪くないかで判断し、常に善をおこなうことを勧めます。そのように教えるのはいいのですが、人間は時間を生きているわけですから、それほど単純ではありません。そのような単純な発想は、人は自分の中の忌避意識を強化し、簡単に区別、差別を生み出し、それが他の人への関わり方に及んでいくとき、人を判断し、人を裁くという暴力となっていきます。それでは、そのようなことをしている“わたし”という存在は、いったい何かということをイエスさまは問うておられるのです。
わたしたちが生きていくということは、わたしたちの計画や予定通りにいかないことばかりです。それを通して、自分の弱さや限界、無力さ、己の罪深さを思い知らされることの連続です。そのとき、わたしたちはわたしたちの力や思いをはるかに超えて、わたしに大きな力が働きかけ、それがわたしたちを生かし、守り、救われていることに気づかされます。それが神、イエスさまとの出会いの場となっていくのです。