年間第25主日 勧めのことば
2024年09月22日 - サイト管理者年間第25主日 福音朗読 マルコ9章30~37節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の福音はイエスさまが2度目のエルサレムでの受難予告をされた後の物語です。イエスさまのエルサレムへの旅は、フィリポ・カイザリアからガリラヤへ、ガリラヤからエルサレムへと舞台が変わっていきます。イエスさまは、エルサレムへ出発される最後のときを、ガリラヤでの宣教拠点とされたカファルナウムで過ごされました。
フィリポ・カイザリアからカファルナウムへと向かう旅の途中で、弟子たちの関心事は、イエスさまがエルサレムで政権交代を果たされたあかつきには、誰がどの役職に就くかということでした。自分がどの省庁の大臣になるかということです。一方で、イエスさまは弟子たちに、自分がエルサレムでどのような最期を迎えるかを話されます。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と。弟子たちは、イエスさまが何をいわれているか分かりません。というか、弟子たちの世界には、失敗、成功という価値観しかなく、自分たちのリーダーであるイエスさまがエルサレムで失敗されることは考えられなかったのでしょう。イエスさまと弟子たちの乖離ということが描かれています。イエスさまは、全部で3回の受難予告をされますが、いずれもその直後に弟子たちの無理解ということが描かれています。第1回目の後には、ペトロへの諫言と叱責、第2回目は、弟子たちの覇権争い、第3回目は、ヤコブとヨハネの願い-これも弟子たちの覇権争いですが-となっています。イエスさまの働きへの弟子たちの無理解ということが、一貫して描かれるのがマルコ福音書の特徴です。先週の福音で、イエスさまは弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だというのか」と問いかけておられますが、イエスとは誰かということを問い続けること、それはつまりわたしというものは何かを問うことでもあるのです。
通常、わたしたちが様々な計画を立てるのは、人生を自分の思った通りに進めたいという欲があるからです。そして、その欲を何が何でも推し進めようとします。ですから、弟子たちにとって、失敗すると分かっているエルサレムへの旅というものは、理解できないというか、分からないのは当たり前です。人間の考える幅というものは、それほど大きくありません。自分の想定できる範囲内で、すべてを収めようとします。失敗を恐れますから、リスクを侵さないようにし、その想定内に収まらないときには想定外ということになります。弟子たちは、怖くてイエスさまに尋ねられなかったと書かれていますが、それはそうだと思います。弟子たちの計画、想定にはないことを、イエスさまはしようとされているわけですから、当然理解することはできないし、聞くに聞けないのです。12使徒といわれた弟子たちは、そのようにまったく世俗的で凡庸な人々だったのです。彼らの関心事は、自分たちの中で誰がリーダーシップを取って、権力を握るかということしかありませんでした。彼らが教会のリーダーだったわけです。情けないといえばそうですが、これはわたしたち人間世界の現実でないないでしょうか。
そのような弟子たちに対して、イエスさまはひとりの子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて、「このような子どもを…」と話し始められます。抱き上げるわけですから、子どもといっても大きな子どもではなかったと思います。また、もう少しあとの箇所では、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることができない(10:15)」といっておられます。当時のユダヤ教の世界では、人としての地位を認められていたのは13歳以上の男子だけで、女性、子ども、病人や障がい者、罪人とみなされる職業についている人たちは人扱いされませんでした。その中で、子どもは無力で弱い立場におかれた人々の代表として捉えられています。子どもであるということは、自分では何もできない存在で、両親やそれに類する人たちに保護してもらい、誰かに頼るしかできない無力な存在です。ユダヤ教の律法を守ることができない存在ですから、子どもたちというのは、神さまから嘉せられる存在ではなかったのです。しかし、イエスさまは、「このような子どものひとりを受け入れるものは、わたしを受け入れるのである」といわれ、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることができない」といわれたのです。
弟子たちの価値観は、何かができる人が偉く、そしてその人が力を握る。失敗や挫折することは悪で、ダメなことという価値観です。ですから、子どものように無力で、何もできないということは、価値がなく、無意味ということになります。わたしたちの通常の価値観もそうではないでしょうか。人間として強いこと、力があること、誰かに何かをしてあげられること、何かを与えられるものであること、他者を助けることができるものであることがよいことだと思っています。わたしが非常に気になることは、カトリック教会がいつもそちら側に立っていることです。確かに、わたしたちが誰かに何かを与えること、施すこと、面倒をみること、何かわたしがすることはそれなりに尊いことだと思います。しかし、もしわたしたちが、誰かに何かを与え、施し、面倒をみ、わたしが何かをできるとしたら、それはわたしが与えるものを受け取ってくれる人がいて、施しを受け取る人がいて、面倒をみられる人がいて、わたしに何かをさせてくれる人がいてはじめでできることなのです。全員が与える人、施す人、面倒をみる人であれば、そのこと自体が成り立ちません。わたしたちが何かをできるとしたら、それはたまたまわたしたちが何かをもっていたり、何かをすることができたり、そのような力をもっているだけなのです。それはたまたまなのです。状況が変われば、与える側にも与えられる側にもなります。お互いさまなわけです。どちらが偉いとか、偉くないということではありません。怖いことに、教会は自分たちがもっている側、与える側、してあげる側であると思い込んでいることです。それなら、弟子たちの価値観と何ら変わりません。
わたしたちは誰もが、何もできない赤ちゃんとして生まれてきますが、だんだんできることが多くなり、何でも自分でできるようになります。しかし、最後に何もできないものになります。人間は必ず老い、病気になるのです。どんなに健康で、どんなに美しくて、活動的な人であっても、最後には必ず、誰かから何かをしてもらう側になる、施しを受ける側になる、介護を受ける側になるのです。与える存在ではなくて、与えられる存在になるということです。そのようにして、わたしたちは自分が与えられた存在であることを学ぶのではないでしょうか。この世界は、何かができるようになること、強くなることは教えてくれますが、何かができなくなることを教えてくれません。強くなること、できるようになることは評価され肯定されますが、できないこと、弱いことは否定されがちです。しかし、イエスさまは「このような子どものひとりを受け入れるものは、わたしを受け入れるのである」といわれました。これは弱い人を受け入れて助けなさいとか、子どものように謙遜になりなさいといわれたのではないのです。
イエスさまが、わたしたちの世界に来られたときに、小さなか弱い幼子として来られました。幼子は、誰かが受け止めて、守って養い育てなければ生きていくことができない、無力な存在です。わたしたちもそのようにしてこの世界にいのちを受けたのです。それは、わたしが何かができるようになって、強くなって、権力を振るって、人々を支配するためではないのです。自分が与えられるものであることを学ぶため、面倒をみられ、何もできないものとなることで、自分が与えられたものであることに気づき、自分は与えるものでもあるけれど、与えられたものであることを学ぶためではないでしょうか。わたしたちは、自分を手放すことによって、本当の自分、与えられた存在に還っていくのだと思います。そのことをイエスさまは「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることができない」といわれたのです。わたしたちは人生において、弱さを学ぶことができる、これこそが希望です。