年間第26主日 勧めのことば
2024年09月29日 - サイト管理者年間第26主日 福音朗読 マルコ9章38~48節
<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗
今日の箇所はマルコの福音書の中でも、非常に解釈が難しい箇所です。多くの人は、この箇所を読むときに大きな勘違いをしてしまいます。いのちに与るために、神の国に入るために、地獄に落ちないために、罪を犯すぐらいなら、自分の手を切り取り、足を切り取り、目をえぐり出すという英雄的な行為をしなさいといわれているように読んでしまいます。そのぐらい、神の国に入るのは大変だという話になってしまっています。実際にそのようなこと、キリスト教の教えを守るために殉教したり、誘惑に打ち勝つために特別の修業をしたりする人たちがいて、その人たちが殉教者、聖人としてほめたたえられてきました。それはそれでいいかもしれませんが、なぜそのような聖書の読み方をしてしまうのかというと、みな自分を主人公として読んでしまうからです。ひとことでいえば、みな自己中だからです。イエスさまが問題にしておられたのは「これらの小さなものひとりをつまずかせる」ことです。しかし、いつのまにか、わたしが地獄に落ちたくない、わたしがいのちに与りたい、わたしが神の国に入りたいというふうに、無意識に読み替えがおこなわれているのです。そう思っているのは誰かというと “わたし”なのです。ただ、わたしが地獄に落ちたくない、いのちに与りたい、神の国に入りたいというところに視点がずれてしまっているのです。それは全部自分のため、自分のために功徳の積立をしているだけであって、イエスさまの中にそのような考え方は一切ありません。そんなことを考えている時点で、すでに神の国とは全く違ったものになってしまっているのです。
ここでイエスさまがいわれたのは「これらの小さなもののひとりをつまずかせる」ことの問題であって、わたしの救いなど問題にされていないのです。それを、いつのまにか焦点が、「小さなもののひとり」から、「わたしの救い」に転化してしまっています。イエスさまが目を向けられたのは、「この小さなものひとり」を大切にすることです。ここで、イエスさまが問題としておられるのは、弟子たちの特権意識、教化者意識です。弟子たちの特権意識というものは、自分たちこそがイエスさまの弟子で、自分たちこそがイエスさまに従っており、自分たちこそイエスさまの正統な後継者であるという意識です。また、教化者意識というのは、自分たちが正統であり、自分たちこそ正しい教えをもっており、自分たちが人々を教えていかなければならないという意識です。そのような自分たちこそが正しいもの、正統なもの、力あるもの、教えるもの、指示するものであるという意識が、「これらの小さなもののひとりをつまずかせる」とイエスさまはいわれたのです。
過去の教会の中では、罪を犯すぐらいなら、また誘惑を避けるために、自分の手を切り、足を切り、目をえぐり出すという人たちがいました。でも、彼らが守ろうとしたのは、キリスト教の教えを信じている他の人とは違う“特別なわたし”であって、「これらの小さなもののひとり」ではなかったのです。このような信仰理解は、自分の意志を信仰と置き換え、どれだけ自分の意志を強くもてるかということが信仰深いことであると勘違いしてしまったのです。このような信仰理解は、信仰という恵みを自分のものとして握りしめてしまい、イエスさまを信じている特別なわたしに執着しているだけで終わってしまいます。
イエスさまがいつも最優先されたのは、「これらの小さなもののひとり」です。「これらの小さなもののひとり」とは、いわゆるかわいそうな、貧しい人たちのことではありません。先週の福音であれば、子どもであり、赤ちゃんであり、ユダヤ教の中では律法を守ることすらできない価値がないとされていたものたちです。これは、わたしであり、わたしでない人たちのことなのです。わたしたちは価値があるから神の国に入るのでもないし、価値がないから神の国に入れないのでもないのです。神の国は、人間の価値基準と関係ないのです。
これがイエスさまが宣べ伝えられた神の国の価値観であり、「わたしたちに従わないのでやめさようとする」ような自分たちを正統とし、そうでないものを異端とする特権意識とも真っ向から反対するものです。地獄というのを教義的な地獄として教えようとする教化者意識とも違います。そもそも、ここで使われているゲヘンナとはエルサレムの都の南側にあったゴミ焼き場のことであって、教義で教えられるような地獄ではありません。それを、あたかもイエスさまが地獄について教えられたかのように教え、注釈でも永遠の罰を受ける場の意味になったと書かれていますが、これはイエスさまの意図ではありません。イエスさまは、誰かが永遠の罰を受けることや滅びることなど望んでおられません。
イエスさまがおっしゃりたかったのは、わたしたちの中に潜む特権意識や教化者意識のもつ危険であって、誘惑を受けないように手足を切り、目をえぐり出せとか、そして神の国の入るためにがんばれとか、地獄にいかないようにしろといわれたのではないのです。このもっとも小さなもののひとりを大切にしていくこと、つまり、誰が正しいか正しくないかとか、誰が仲間であって仲間でないかとか、誰が大きくて小さいとか、誰が天国に入って地獄にいくとかいう考え方をやめなさいといわれたのです。なぜなら、このもっとも小さなものは、正しいことを何もできない、律法を守ることもできない、人のために何も良いことをすることもできない、彼らは天国にいくために何もできないのです。しかし、神の国は彼らのものだとイエスさまはいわれたのです。イエスさまがいわれるのは、何かができるからとか、何かをやったからとか、よいことをしたから、神の国に入るのではないといわれたのです。神の国はそのような人間のよしあしを超えたものだということをいわれたのです。この小さなもののひとりを受け入れるものが、わたしを受け入れるのだ、それが神の国ですといわれたのです。