information

教会からのお知らせ

年間第27主日 勧めのことば

2024年10月06日 - サイト管理者

年間第27主日 福音朗読 マルコ10章2~16節

<勧めのことば>洛北ブロック担当司祭 北村善朗

今日の聖書の箇所は、しばしばカトリック教会における結婚の不解消性の根拠として述べられているところです。しかし、イエスさまがここで話された意図は、結婚の不解消性について述べるためではなく、当時の女性の権利を擁護するための発言であるといえます。この話は、その直後に来る、子どもを祝福するという箇所と密接に結ばれています。というのは、その当時、女性と子どもという存在は、社会的に権利が認められていないものの代表であったからです。その点から、今日の箇所をもう一度読み直してみたいと思います。

今日の箇所は、イエスさまがガリラヤからエルサレムへ向かう途上での出来事です。そこには、イエスさまの教えを聞こうとして多くの人が集まってきますが、イエスさまに対して明らかに敵意を抱いているファリサイ派の人々も混じっていました。ファリサイ派の人々にとって、イエスさまは律法の違反者として映ったようです。というのは、夫が妻を離縁することは、モーセの律法において男性側の権利として認められており(申命記24:1)、イエスさまの時代において通常のことになっていました。それにもかかわらず、ファリサイ派の人々が、「夫が妻を離縁することは、律法にかなっているでしょうか」と質問したのは、おそらくイエスさまが離婚について、通常のモーセの律法解釈とは異なる考えをもっていることを彼らは知っていたのでしょう。共同訳聖書では「夫が妻を離縁することは、律法にかなっているでしょうか」と訳されていますが、原文では「夫が妻を追い出すことはゆるされていますか」と書かれており、「律法にかなう」という言葉はありません。誰か親切な人が書き加えたのでしょう。ですからイエスさまは、「モーゼはあなたがたに何を命じたか」と質問しておられるのです。このファリサイ派の人たちの質問は、真心からのものではなく、イエスを試み、陥れようとする悪意から出たものでしかありません。結婚を擁護するような意図はまったくなく、男性の立場から、ただイエスさまを律法の反対者として告発するためのものでした。まして、離婚を認めないという教会の教えの根拠ではありません。

イエスさまは、離婚をゆるしている律法を神さまの本来の意図によるのではなく、「あなたがたの心が頑固なので」与えられた次善の策であると理解されていたということです。このようなユダヤ人にとって教えの本質である律法を再解釈し、なおかつ相対化し、律法を超えるものを目指していく発想は、エルサレムの陥落後にユダヤ教から独立していった後代の教会のものではなく、イエスさま自身に由来するものであると思われます。なぜなら、マルコ福音書は紀元70年のエルサレムの陥落以前に書かれたものであり、イエスさま自身の教えに由来するものが書き記されているといえるからです。70年以降に書かれた他の3つの福音書は、ユダヤ教の一派であったナザレ派から、キリスト教になっていく過程で書かれたものであり、その時々の教会の状況が色濃く反映されています。そのように見ても、このような律法に対する捉え方は、イエスさまに由来するものであり、当時のファリサイ派の人々にとっては受け入れがたいことだったと思われます。それゆえ、ファリサイ派の人々はイエスさまと激しく対立し、ファリサイ派の人々は、イエスさまを律法の違反者としてゆるすことはできないと考えたのでしょう。しかし、イエスさまは、男性にだけ離婚する権利を認め、女性にはその他種々の権利を一切認めない、当時の律法という名のもとに行われている男性中心主義的な恣意的な暴力を批判されたのだということができるでしょう。ここで問題とされていることは、権利や既得権をもった男性によって、しかも、宗教という名のもとにおこなわれている弱者への抑圧、暴力ということが問題になっているのです。ですから、この箇所をもって結婚の不解消性を主張するのはまったく論点がずれていることになります。

この後に続く、子どもたちとのやり取りも同じ問題であるということを理解すれば、なぜこの箇所の直後に、子どもの祝福の箇所が置かれているのかもよく理解することができます。マルコ福音書では、すでに「わたしの名のためにこのような子どものひとりを受け入れるものは…(10:37)」とあり、イエスさまが弟子としての心構えについて話しておられます。聖書のなかで、“子ども”ということばは、幼児から12歳までの子どもを指しています。この年齢の子どもたちは、律法を理解できず、また律法を守ることもできません。それゆえに神さまの前に何の価値もないものとして扱われていました。しかも、ユダヤ教、特にファイリサイ派では、人は律法の遵守によってのみ、神さまによって義とされると考えられていました。律法を完全に守れない女性や子どもたちは、人としての価値を認められていなかったという当時の状況があるわけです。そのような当時のユダヤ教の価値観に対して、イエスさまは憤って「神の国はこのようなものたちのものである」といわれました。当時の人々の考えていた神の国は、律法によって示されている神の意志への従順によってもたらされると考えられていました。つまり、人間の力で神の国を建設できると考えられていました。また、神の国は、世の終わりの到来によって、世界が神を認めるようになることによってもたらされるとも考えらえられていました。第1のものは人間の力、努力による報いとして、第2のものは将来的、来世的な希望として神の国を理解しようとするものでした。

その点からすれば、「神の国はこのようなものたちのものである」というイエスさまの主張は、神の国はいつどのようにくるのかという発想と異なっていることがわかります。イエスさま自身「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』といえるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ(ルカ17:20)」といわれています。ここで「見える形では」といわれていることばは、「オブザーバーとしては」という意味です。つまり、神の国というのは、わたしたちが外に立って眺めることができるようなものではなく、わたしたちが部外者としてその外に立つことができるようなものではない、あなたがたそのままが神の国ですといっているのです。つまり、神の国はいつか、どこかにきて、そこへわたしたちがどのようにかして入るとか、入れないとかいうようなものではなくて、あなたがたが神の国の当事だという意味なのです。わたしたちが決して出ることができない、わたしたちが生かされている神のいのち、永遠のいのち、三位一体の交わりが神の国だといっているのです。わたしたちは、神のいのち、永遠のいのち、三位一体の交わりから出ることはできませんし、出ることはありえません。すべての生きとし生けるものをすべて包み込んで流れていく根本的な大生命のようなものなのです。魚が水を離れて、魚でいることができないように、鳥が空を離れて、鳥でいることができないように、東洋でいわれているところの無、空といわれているような何かであり、それなくしては、わたしはわたしでありえないところの何かであるといえばいいかもしれません。キリスト教では、それを神の国、永遠のいのち、聖霊、神の働きといってきたのだと思います。

神の国に入るために必要なことは、といっても神の国に入るとか入らないということなどないのですが、あえていうならば、わたしたちが神の国に気づくということが「子どものように神の国を受け入れる」ことであるといわれているのです。子どもたちは、律法を守ったり、功徳を積むことも、犠牲を捧げることもできません。ですから、子どもたちは神の国に入るためには何もできません。しかし、そのようなことなど何も問われていない、あなたがたが生きていることが神の国なのだということに気づくこと、人間が作り出した垣根を取り払うこと、それがイエスさまの時代では律法を守れるとかどうかという区別を取り払うこと、律法を相対化することだったのです。さて、わたしはどの垣根を取り払うのでしょうか。

お知らせに戻る

ミサの時間

毎週 10:30~

基本的に第2、第5日曜日のミサはありません。大祝日などと重なる場合は変更があります。